物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

ドイツ語

2006-02-23 20:27:42 | 日記・エッセイ・コラム

今朝知り合いの元牧師さんから電話を頂いた。松山市が経費削減のためにコムズで行っているドイツ語のボランティア講座を廃止するとのことだ。

この元牧師さんはドイツはマールブルグの大学で神学の学位をとったという人で、この神学者はギリシア語とかラテン語にも詳しい、語学オタクである。しかし、困ったことがあるといつも電話をしてこられる。

そのドイツ語のボランティア講座はドイツ語オタクの連中の隠れた溜まり場であった。私がボランティア講座の後に電車で一緒に帰る、さるご婦人は昔フランクフルト空港で働いていたことのある人で大阪万博の時にはドイツ館でドイツ語の通訳をしていたという専門家である。これらの方々は少なくとも私が一朝一夕に追いつけないようなドイツ語の能力の持ち主である

それから、ある医学部教授の奥様でドイツ滞在が長い方とかドイツ大好きな貸しビル業の男性とか多士済々である。かくいう私も少しはドイツ語を話すが、皆さんと比べるとまったくお話にならない実力差である。

でもそういう人たちのささやかな集いの場所がなくなってしまうのはなんとしても惜しい。なんとかせよというのが件の元牧師先生のお申し付けである。さて、どうしたものだろうか。


確定申告

2006-02-22 17:23:40 | 社会・経済

このブログはほとんど誰も見ていないと思うので、自分のメモ帳として使っている。だからその時々の私の関心事が出てくる。いまは確定申告の時期なので、確定申告について書く。

とはいってもいままで給与所得だけであったので、確定申告などする必要がなかった。今年は昨年の3月に定年退職したのでどうしても確定申告する必要がある。

いままでなんとか控除という書類を年末に数枚出せば、年末に税金が返ってくることが多かった。それで係りの人に助けられて自分は面倒なことをしないで済んでいたのがわかった。

もっともこのごろはインターネットで確定申告の書類をつくれるということでいま住宅取得控除の申告をしようと思ったのだが、この家にいつ入居したのか覚えていないということで書類をつくることを途中で断念しなくてはならなかった。また明日に出直しである。

しかし、いつの間にやら数学と物理のブログ(pysicomath=physics and mathmatics )からはずれてしまっているのは残念だ。


「時代を撃て 小林多喜二」を見て

2006-02-17 17:35:59 | 国際・政治

水曜日に標題のドキュメンタリ映画を見た。小林多喜二は小樽高商を出たいわばエリートの銀行員であったというのは意外であった。

特高警察の拷問場面を書いた小説で名を挙げたという。また、蟹工船はその過酷な労働といじめ等を描いたということで有名であからさまな批判ではなかったらしいが、天皇制批判がその中に出てくるという。

そのドキュメンタリは印象的なものであったが、多喜二を英雄的に描くことにはあまり賛成できない。多喜二が亡くなってから20年もしないうちに特高警察はなくなってしまったのだから。当時の共産党の活動の純粋さは評価するとしても玉砕的なやり方には反対である。そういうのを格好いいと思う思想があるとすれば、要注意であろう。


絵葉書

2006-02-14 14:05:31 | 国際・政治

先日モーツアルト生誕250年の松山モーツアルト会の会合で会った、林さんというアメリカを中心にして日本とかヨーロッパを仕事場にしている人の話だと絵葉書に1-2行書いて投函する、そういう文化がアメリカにはあるとか。日本みたいに別に長く書かなくてはと考えなくてもいいではというのが、林さんの意見であった。

それで思い出したのはもう30年ほど昔だが、フランコ・ロラというイタリア人の化学者とイタリアからスイスの方へ車でアルプス越えをしたことがあった。なかなかアルプスの峠を越えるのは今でも難儀なものだが、アルプスは景色もいい。

ロラはイタリア人だから2時間も車を運転しているとコーヒーが飲みたくなる。街道のカフェーに入ってカップチノかエスプレッソを飲む。そのときに絵葉書を買って、ほんの1行か2行書いて彼の両親に送っていた。それは彼だけのことかと思っていたら、そうではないらしいということを今回その林さんの話で知った。

そういった感覚を知っているかどうかは肌で経験をしてみないとわからない。国際化とかいうが、そういうのはものの本にも多分出てこないだろう。


Je t'aime.とJe t'aime bien.

2006-02-13 13:55:23 | 学問

Je l'aime bien. とか Je t'aime bien. とか聞いたりして愛しているのかとまたは愛してもらっているのかとは思ってはいけない。

とはラジオのフランス語講座で最近聞いたことですが、本当に愛していたり、愛されていたりするのはJe l'aime. とかJe t'aime.と副詞なしにいうそうですね。

これは昔小田実と開高健の「俗語英語表現」だかなんとかいう本にアメリカの男は女性を口説くときに

I love you.

といって他には何にも修飾語をつけないと書いてありました。それが「口説き上手」なんだとありましたが、口説き上手ではなくて言語感覚としてそうなんだろうとフランス語の話を聞いてそう思います。

どうしてなんでしょうね。bienとかbeaucoupとか副詞がつくと相対化されてしまうというのはどういう言語心理なんでしょうか。M先生のような言語学者に聞いてみたいところです。

(2014.6.26付記) eine "altere Dameとは老齢のご婦人ではなく、中年のご婦人だとかいうことも聞いています。

eine alte Dameは老齢のご婦人だが、絶対比較級のeine "altere Dameはalte Dameよりも年齢が上の婦人ではなく、相対的にお年の、すなわち、中年のご婦人となるとはどういう言語感覚なのでしょうか。


大学図書館のOPACの閉鎖

2006-02-10 12:29:27 | デジタル・インターネット

すべての大学ではないのかもしれないが、私の在職していた大学の図書館のOPACが許可がないと見れないことになった。

ある日いつものごとく大学の図書館のホームページに入って図書を探そうとしたら、許可がないと出た。それで先日大学へ出かけたときに図書館で知り合いに聞いてみたら、メディアセンターで許可をとってパスワードをもらってくださいという。ちょっとした講習を受ける必要があるようだ。まだ申し込んでいないが、情報のオープンと逆行することである。

そのうちに国会図書館もそうなるのではないかと恐れている。確かに心ないクラッカー(?)がいることは事実だが、それはほんの一部の人だろう。もっともその人が大きな災害をインターネット社会にもたらしているのだが。

インターネットで何でも出来るというのは幻想であったのだろう。もちろん、インターネットから送金も出来る。そういう時代ではあるが、まだまだ制約も多い。

少なくとも情報を公開するということは大事なことなのだが、それがどれくらい実現するかは難しい問題を抱えているということだろうか。