物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

市会議員選挙

2018-04-30 17:14:02 | 日記

昨日、松山市の歯科医銀選挙があった。数人の人から電話があり、誰に入れるかで迷ったが、ある女性候補に投票した。結果をみると、私のうちにハガキが来ていた人はすべて私が1票を投票したかしなかったかにかかわらず、当選していた。

投票率が低かったらしいが、それでも当選する人としない人とは区別がつくから不思議である。やはり年を取った人は落ちる傾向にあり、若い人が当選する傾向になる。

昨日、投票所に歩いて行ったのだが、道をまちがえたりして、ごく近所であり、もう30年以上も住んでいるのに知らない初めての道を通って遠回りをしてしまった。私の住んでいるところは松山では比較とき土地単価が高いところであり、通り道の路地にはきれいな家がたくさんあった。河を渡る必要がないはずだが、いつしか川端に来てしまい、そこを上がってみたら、なんのことはない。久米郵便局の近くであり、大分行き過ぎていた。

久米支所の体育館で投票が行われていたのだが、それもわからず、支所の中に投票所があるんかと入って行ったら、ちがっていた。私だけではなく、目の不自由な人もまちがってはいっていたが、だれかがここではないんですと教えてくれた。

私はあまり朝起きるのが早い方ではないので、あまり朝の散歩等もしないので、ご近所でもまったく通ったことない知らない路地があり、そこに結構裕福に暮らしているのではないかと思われる家があった。

どこかで普段通る道を横切っていたはずだが、どこでその道を横切っていたのかはわからなかった。かなりの方向音痴である、私は。

 

 

 

 

 

 

 


工科系の量子力学

2018-04-30 12:16:38 | 物理学

のテクストとして使ったものも、使ってないものもあるが、いくつかのテクストをあげてみよう。私が関心をもったものである。

これは工科系の量子力学の本ではないが、初等的な量子力学で丁寧に書かれてあるものとしては、原島鮮『初等量子力学』(裳華房)である。丁寧に書かれてあるが、もっと高級な内容を学びたいならば、他のテクストを学ぶ必要があるだろう。

つぎに、工科系専用としては野村昭一郎『技術者・工学者のための量子論』(実教出版)がある。これはどこがいいと思ったのか忘れてしまったが、テクストとして使ったことがある。さらにこれはテクストとして使ったことはなかったと思うが、岸野正剛『量子力学の基礎』(丸善出版)がある。場の量子論の初歩を超電導等の理解のためにもできるだけ早く導入しなければならないという考えの量子力学のテクストである。そういう意味でそれまでになかったタイプのテクストである。

場の量子論は素粒子論を専攻する学生は大学院のころに必ず学ぶ量子論であるが、物性の研究者にも同じように重要だという指摘は物性系の方から出されたのが新鮮だった。

私はほぼ30年以上非相対論的量子力学を教えたが、工学部であるから理学系であったら、学ぶような内容でもあまりすぐに必要でないと思ったことは省いていた。それの最たるものとしてはエ―レンフェストの定理である。これは平均値をとると、古典力学の運動方程式が成り立つという内容である。

エルミート演算子の意味などはどの量子力学のテクストにもあまりはっきり書いてないが、この点については、ボームの『量子論』(みすず書房)にははっきりと書かれている。Bohmの"Quantum Theory"はいまではDover版が出ており、比較的安価に入手できる。また、これは私が学部4回生のときにセミナーで読んだSchiffの"Quantum Mechanics"にもボームの"Quantum Theory"にもオッペンハイマーの講義に感謝されてあり、アメリカでの量子力学のテクストへのオッペンハイマーの影響を見逃すことができない。

私が大学で学んだ量子力学の講義では講義をされた S 先生は相対論とか宇宙論が若いときの専門であったからか、数式一杯の量子力学であり、先生自身はSchiffのテクストにしたがっているといわれたが、中身にはかなりボームのテクストが取入られていることを自分が量子力学を教えるようになって知った。


室生祐月さんが松山に住んでいる?

2018-04-28 18:06:25 | 日記

シングルマザーの祐月さんが松山に住んでいるとか書いたものをどこかで見た。お子さんは2000年の生まれらしいから、もう18になられるのだろう。憲法に保証された権利の一つである、だれにでも住居の自由であるから、どこにお住まいになろうと自由である。松山にお住まいなら、松山市民としては誇らしいことである。

松山の文化度がちょっと上がった気になるのは気のせいだろうか。実際に室生さんが松山にお住まいになっているかどうかの真偽のほどは知らない。単なるぬか喜びかもしれない。インターネットによると室生さんは作家らしいので、いい作品を文学の町といわれる松山で書いていただけると、さらに松山の価値が上がるだろうか。

この情報は新聞で読んだことではないような気がするので、町内会の広報みたいなもので読んだのかもしれない。もっとも室生さんにとってはそんなことはほっておいてくださいということかもしれないので、あまり追求するつもりはない。

もし、電車の中等で誰かに気がつかれたとしても、他人の空似のふりをされるのがよろしいでしょう。


Idylle

2018-04-28 13:12:00 | 日記

Idylleとかidyllischというドイツ語を知っているようだと、多分初歩のドイツ語の域をすでに出た人であろう。Idylleは日本語に訳すると「牧歌」とか「田園詩」とかであろうか。idyllischは「牧歌的」とでも訳すことができよう。

ところがところがである。「牧歌」という名詞は聞いたことがなかった。それで牧歌を先日国語辞典で調べた。これは「牧人が歌う歌」という意味である。のどかな田園風景や牧場の景色が思い浮かぶ。「牧歌」という名詞は聞いたことがなかったが、形容詞の「牧歌的」という日本語の方は知っていたのだから変なモノである。

だから、ドイツ語のほうでも名詞のIdylleよりも形容詞のidyllischの方を先に知っていたから、おかしなものである。

「ドイツ語2000」Deutsch 2000という初歩のドイツ語を学ぶテクストがあった。もちろん、ドイツでつくられたテクストである。だからドイツ語をもし2,000語知っていたらドイツで日常生活には困らない。もっとも知的な生活ができるにはもう少し語彙を知っていなければならない。

私が自分で判断するに、もうドイツ語の私の知っている語彙は2,000よりは多いと思う。だが、自分で使えるドイツ語と言えば、やはり2,000語のレベルであろうか。聞いてわかる語彙はもっとあろうが、それでも4,000もあるかどうか。

これはH大学での学生のときに、ドイツ語の羽田先生が授業で言っていたことだが、日本の大学生がドイツ語の語彙としては3,000から4,000くらいのレベルだという。そして、教養あるドイツ語を母語する人なら、8,000から10,000語くらいだと言われていた。

羽田先生は旧制の松山高等学校始まって以来のドイツ語のよくできた学生だったと、羽田先生を松山高等学校で教えられた M 先生が言われていたと、これはもう何十年も前に亡くたった、私の兄から聞いたことがある。

私の兄は E 大学でこの M 先生からドイツ語を教わった。もっとも私の兄は英語が不得意であったから、大学での第一外国語にドイツ語を選び、第一外国語の必須である、8単位のドイツ語の単位をとるのに悪戦苦闘した部類であった。

こういう兄の判断は, 英語はしかたがないが、ドイツ語ならば、大学に入ってみんな一緒に学びはじめるのだから、英語ができなくてもどうってことはないだろうという判断であった。この判断が間違っていたのはいうまでもない。

私自身は大学でドイツ語の単位をとるのに悪戦苦闘したという記憶はないが、それでもそれは単に単位をとっただけのことで、ドイツ語の力がまったくついていなかった。まったくドイツ語がわからなくても、大学で単位だけはとれるのである。


活劇映画に使われる車

2018-04-28 12:23:00 | 日記

は大抵ベンツのことが多い。これは車が頑丈なためであろう。日本ではベンツで通っているが、ドイツ人はメルチェーデスとよぶのが習わしである。ストットガルトのベンツ博物館に一度行ったことがある。

これはもう故人となった Y 君がそのころ研究留学でストットガルトに滞在していたので、訪れたのだ。電車か地下鉄の駅でどこかの企業の方と一緒になり、二人で見学した。ダイムラー・ベンツというのが会社の名前であるが、メルチェ―デスというのは創業者の娘さんの名前であったと思う。

ドイツでも経済的に裕福な医師とか、弁護士や企業の役職にあるような人が乗る車である。日本ではメルチェデスもちょっと小型であり、大きくはないがヨーロッパで走っているベンツは図体自身も一回り大きい。日本で走っているメルチェ―デスはだから小ベンツ(コベンツ)言われている。

五輪のマークみたいなのがついている車はアウディ(audi)であったと思う。活劇映画によってはこのアウディが使われている。ときどき、活劇映画ではBMWもときどき使われるこれはべー・エム・ヴェと発音される。日本では普通にはビー・エム・ダブリュだろうか。ドイツでの大衆車と言えば、フォルクスワーゲンであるが、これはVW(ファウ・ヴェー)と呼ばれる。

VWは現在では立派な車だが、ちょっと大衆化が進んだ感じの車にOpel(オペル)がある。昔のVWの代表はカブトムシみたいなフォルムのケ―ファーがあった。いまでもときとき日本でもケーファーが走っているのを見るが、これは現在ではとてもめずらしい。ケーファーは文字通りカブトムシという意味であったと思う。

ミュンヘンのオリンピック・スターディアムから見えるところにBMWの会社がある。BMWもスポーティでかつ足の速い車である。ベンツとかBMWに乗っている人は金持ちだと思われている。ある種のスーテタス・シンボルである。


もう4月が終わりそうだ

2018-04-27 18:31:21 | 日記

この間3月になったと思ったら、すぐに3月は過ぎて、もう4月が終わりそうになっている。それだから、ガスストーブはまったくつけないという訳にはいかないが、ほとんどつけないですむ、いい季節となった。それに空気を冷やすエアコンもまだ必要ではない。

電気代というか暖房代とかが比較的安くつくいい季節となった。6月の梅雨のころにはひょっとしたら湿度を下げるためにエアコンを使うかもしれないが、まあまだエアコンは使わないだろう。

10月半ばくらいから12月ちょっと前までと春先の現在が日本で一番いい季節となる。冬の寒さは暖房でなんとか切り抜けられるが、7月8月の高温多湿には長年日本人をやっているが、なかなか困らされる。これがヨーロッパ人なら、夏の間は自分の国に帰るなどということが考えられるのであろうが、こちらはなにせ日本生まれの日本育ちなのだから、どこにも逃げていくところがない。

友人が長野県に山荘風の別荘を数年前にもつようになったので、いつかたずねてみようと思いつつも先立つものがなく、なかなかそうもいかない現状である。


『近代日本の一五〇年』を購入

2018-04-27 13:49:53 | 日記

『複素関数論』の本と共に山本義隆『近代日本の一五〇年』(岩波新書)を購入した。しかし、どうも彼の著書は難しい。そういうことを言っては失礼なのだろうが、彼はなんでも徹底的に調べて書くので、難しくなる。

もっともちらっと見たところでは彼は科学技術という用語を特別な意味に用いているらしいことがわかった。これは武谷三男の技術の定義との関連において関心がある。

山本さんの科学技術の定義が18世紀末以降の科学と技術をさしていうらしい。それ以前の科学と技術とは全く別物という見解らしいが、意識的に科学がというか「客観的法則性が生産実践において意識的に適用された」のは19世紀以降だというのはちょっと考えが狭すぎないか。

山本さんはいろいろ科学史や技術史を調べて、多くの著書を著している人に弓を引いて悪いが、どうもちょっと言葉のあまり限定的な使い方ではないのかと昔の知人の一人としては思うのである。いやこれは私自身の直観であって、よく調べた結果の見解ではない。


複素関数論

2018-04-27 11:46:50 | 数学

の本を愛媛大学生協から受け取ってきた。

これは『複素関数論』(森北出版)である。著者は5人であるが、辻良平、柳原二郎、西尾和弘、佐藤シズ子、吉田克明の諸先生である。ちらっとみたところでは分岐点の定義はあからさまに書いてないが、「分枝」という用語はあって、log (1+z), arctan zは多価関数だが、z=0のところで1価関数(主値)となっていると説明がある (p. 73)。

これは私が年来わからなかったところだが、わかったと2005年に『数学散歩』(国土社)pp. 126-127で書いたことである(注)。もちろん私が初めて言い出したことではない。私は故安倍斉先生(愛媛大学元名誉教授)の『応用関数論』(森北出版)pp. 41-42とかベル(銀林浩・田中勇 訳)『数学をつくった人びと』下(東京図書)p. 194で知ったことであった。

それに虚数単位 i の導入のしかたがよいことはすでに先日のブログで述べた。ただ、この書では解析接続の方法についてそれほど体系的には述べていないようである。もっとも記述か全くないわけではない。

(注)『数学散歩』(国土社)は現在品切れで購入したくても購入できない。その代わりに『物理数学散歩』(国土社)が出されているが、これも出版社では品切れかもしれない。著者の手元には100冊以上も在庫してはいるが。

アマゾンコムでは、この書の古書が1万円を超えて値がついていた。この本の価値を認めた方が古本として売ろうとされているのだろうか。そのことはうれしいが、ちょっと驚いている。

また、『数学散歩』(国土社)の出版は2005年だが、その当該記事をはじめて発表したのはもっとはやく1996年6月であり、これは愛媛県数学協議会の機関誌「研究と実践」に掲載された。


衣笠祥雄さん

2018-04-26 11:46:19 | 日記

大学と大学院での私の同級生であった H 君がカープファンだった関係で彼と一緒にもうなくなってしまった、広島市民球場にも数回カープの試合を見に行った。当然のことだが、1塁側の観覧席である。

私は1968年3月に広島を去ったので、1965年にカープに所属することになった、衣笠さんと広島では数年しか一緒ではなかったことになる。多分、衣笠選手が活躍しだしたのは私が広島を去って以後のことである。だから市民球場で衣笠選手を見たことはなかった気がする。

それでも衣笠選手と山本浩二選手とはスター選手であったので、すぐに覚えた。1975年の初優勝のときには、たまたま訪れていた N 高専のテレビで優勝の瞬間を見たという記憶があるが、これはひょっとすると日本シリーズのことであったかもしれない。

もうすでに亡くなって久しい H 君がもう負けつづけて、弱かったカープが優勝するなんてと感動していたのを今でもありありと思い出す。それくらい広島県民には悲願のカープの優勝だった。

そういういわくがあるのだが、衣笠選手の筋肉は柔らかくて典型的なスポーツ選手だったと聞いたか、読んだことがある。筋肉は労働者は硬く、私たち何もしていない者は柔らかい。そしてスポーツ選手は力を入れれば、労働者ほど硬く強くなるが、力を抜くと私たちと同じくらい柔らかいのだと聞いた。

それだから、100回を越える、死球にも耐えられたのであろう。そういう体が2215回という連続出場を可能にした。それと強い意志もあったろう。衣笠さんといえば、死球に怒る自チームのベンチをなだめながら、1塁に向かったといわれる。この寛容さはどこから来ているのだろうか。生身の人間であるから、死球が痛くないはずはない。異口同音に長嶋さんや王さんが優しい人だという印象を衣笠さんに抱いた、そのもとはやはり寛容さから来ているのだと思う。

自分には厳しいが、他人には優しい。これはそういう人間が理想だとは思うが、なかなかできることではない。

新聞で見たのだが、江夏さんが死とは「誰で通る道だが、もうすぐに俺も行くからいつまでも寂しくはさせない」というような言葉を述べたと新聞に出ていた。さすがに衣笠さんの親友という江夏さんの言葉として、この人の人柄を察することができた。

(2018.4.28付記)祥夫と間違っていました。祥雄でした。


意にかなう複素解析のテクスト

2018-04-25 16:10:13 | 数学

があったので、購入の手続きをしたら、数日で大学の生協に入荷したらしい。今日か明日に取りに行こうと思っている。これは1を虚数単位の i の導入が座標原点 O のまわりの90度回転で導入している。

こういう虚数単位 i の導入をした複素解析のテクストとして、はじめて見るものである。この虚数単位 i の導入のしかたは、このテクストの専売特許ではないのだが、それを実際にこのしかたで虚数単位 i を導入した複素解析の日本語のテクストを見たことがなかった。google booksでのサービスで見て購入を決めた。もっとも他の部分がうまく書けている保証はない。アマゾンコムの書評では名著との評がいくつかあったけれども。この書評も点の辛い人と点の甘い人とがあるので、何とも言えない。

いつもこのブログで述べているように私の複素解析のテクストの評価は「分岐点をどう説明しているか」と「解析接続の方法とその例がどくれくらい豊富か」ということにあるが、そのどちらにもあまり合格するテクストはない。

近々このテクストを手に入れるのだが、いまはそのタイトルも覚えていない。それでここに紹介することができない。なんでも多くの人が著者になっている本だったことしか覚えていない。その著者のうちの二人はもう故人になっているとあった。


3次元のラプラス演算子の極座標表示(再々論)

2018-04-25 15:37:32 | 数学

3次元のラプラス演算子の極座標表示を江沢洋先生の計算方針にしたがって、また導びいてみた。昨夜の夕食後にそれも12時過ぎに寝る前の少しの時間と今日の午後のちょっとした時間を使って導くことができた。

正味の時間として、どれくらいかかったのだろうか。今日は午前中には眼科の診療所に行ったり、洗濯物を干したりの家事が午前中にあったので、午前はまったく時間を使っていない。午後はラジオ体操をしたり、ラジオの「まいにちドイツ語」と「まいにちフランス語」を聞いたり、また昼食をとったりしている。

学生のころには、3次元のラプラス演算子の極座標表示の計算は1週間くらいかかって、それでもなかなか計算が一致しなかったと思う。だから、江沢先生の式を小分けにした計算の威力のほどがわかる。それに私もちょっと計算の工夫をしたので、これほど早く計算ができたのだと思う。

それは微分の前の係数をすべて添字つきではあるが、1文字に置き換えた。それでも一つの式の計算がうまくあわないで慌てたので、ちょっと検算に時間がかかったが、それのミスもあまり時間を空費せずに見つかった。

やはり、この方法での極座標表示も数学エッセイに書いておくべきだろう。

(2018.6.12付記) ここに述べた方法での「3次元のラプラス演算子の極座標表示」の求め方は最新の「数学・物理通信」8巻5号に掲載した。まだ谷村さんのサイトに載っていないかと思うが、数日後には載ると思うので、参考に読んでほしい。


Je voudrais peindre comme tu ecrits.

2018-04-25 12:20:46 | 日記

これは画家のセザンヌが友人の作家のエミール・ゾラに言った言葉だという。意味は「君が書くように絵を描きたいものだ」(ジュ ヴードレ パインドレ コム チュ エクリ)

いまでこそ画家のセザンヌは日本では印象派の画家の代表としてとても有名だが、生前には亡くなる数年前にようやく名声が得られたのだという。親友の作家エミール・ゾラに言ったこの語はちょっと愚痴のように聞こえないでもない。中学生のころに絵の先生からセザンヌは銀行家で、日曜画家であったと聞いたような気もするが定かではない。

親友のゾラの方はすでに名声を得ていたそうであるから、そういう友人にちょっと愚痴が出たともいえるかもしれない。昨夜のNHKのテレビのフランス語の放送で見た。毎年横浜かどこかで行われるフランスの文化祭か映画祭か何かで招待された映画監督がスザンヌの好きな言葉として言っていたのをちょっとメモったのだから、正しくメモったかどうかはわからない。

それとこれもちょっとこのブログで書いておきたいと思っていたのだが、作家カミユは先日のNHKのフランス語の放送で聞いたところではカミュであり、日本語では強調される名前の終わりのユではなくuはほとんど聞こえない。

(2018.4.26付記) カミユの主な作品である、『異邦人』(?)は自分で翻訳でも読んだことはないが、これは戯曲に変換されたものをもうこれは何十年か前のNHKのフランス語の放送で聞いたことがある。けっこうフランス語的には難しかったという記憶がある。ただ、はじめの「昨日、ママが死んだ」という始まりはいまもまだ覚えている。


数学エッセイをひとつ

2018-04-24 18:13:47 | 数学

書き上げた。これは数日前から書いていたのだが、ようやく書き上げた。とはいっても検討に時間がかかるから完成とはそう簡単にいかない。

昨日、江沢洋先生の『微積分の基礎と応用』(サイエンス社)を見たら、私が数か月前に書いたラプラス演算子の極座標表示の計算のちがった説明があった。これをもっとわかりやすくしたエッセイを書いた方がいいのではないかと思い始めた。

演習問題の解答としてかなり詳しい計算が載っているのだが、それでもちょっとわかり難いと思う。どうしたらいいのか少し考えてみたいと思出した。今日、県展を見に行ったついでに図書館によって、新しい本を借りて来た。

その一つが瀬山さんの『正比例の数学』(東京図書)である。これはどのように線形代数への入門をするかということについて述べた本である。


県展に行ってきた

2018-04-24 12:15:31 | 日記

義父が県展の関係者だったこともあって、行き忘れていた、県展に今朝の午前中行ってきた。主に洋画という油絵の部分を見たのだが、写真に知人が出品しているので、それだけは見逃さないようにと見てきた。桜と霧とを主題とした写真で華やかなものであった。

洋画を見ていて思ったのだが、他人の作品などなかなか苦労がわからなくて、するっといかに力作であっても、その絵の前を通り過ぎるくらいの感じである。これは私が苦労していくつかの本を書いても、読者にしてみたら、その苦労などはわからずまるで全くいいところがないと思われるのとまったく同じである。人の苦労はお互いにまったくわからないものだという諦観みたいなことを感じた次第であった。

本だとちょっとまとまったものとなるが、エッセイでも論文でも同じであろう。なかなか他人のしていることを評価できないものだと思う。

これは別にアカデミックなことでもなくてもいろいろあるだろう。なんでも同じようなことを経験があるのかないのかということが基本的に効いてくる。人のことを正しく判断できるためにもやはり自分自身の似たような経験があるのかどうかによるのだと思う。

 


「数学・物理通信」をやっていると

2018-04-23 11:48:51 | 科学・技術

「数学・物理通信」をやっていると、ぽつぽつと一般の人からの投稿がある。それでもなじみのない人にはどうしても悪いが、点が厳しくなるのはしかたがない。

ある程度、自分できちんと吟味された論文とかエッセイであればいいのだが、そうでないとちょっと受け付けられないということが起こる。もっともこれは純粋な科学の雑誌ではないので、きちんとしたレフェリーがいるわけではない。

だが、どうも受け付けられないとしか言えない論文もあるのはどうしてもしかたがない。採択率は私の知らない人だと50%くらいの採択率である。けっこう厳しい。私が断った論文が外国の雑誌に載ったりしたこともあるが、断った判断が間違っていたとは思わない。なかなか認めがたい種類の論文がある。

これはどういったらいいのかわからないが、発想がとても変わったものとか、ちょっと眉唾ではないかと思われる論文は断ることが多いような気がする。それとメールの上だけだが、ちょっとメールのやり取りしているとその人の人柄だって少しづつ窺い知れてくるような気がする。堅実で、正直かつ誠実な人だとその人を信頼できる気がする。

人にはそれぞれの人柄があるが、真っ当な人なのだが、考えがちょっとおかしい人には気の毒だが、厳しくなる。これは私の主観だから、私がまちがっているかもしれない。それでも個人編集のサーキュラーだから、掲載の採否が編集人の一存によるのはしかたがない。


(2023.8.7付記)3の倍数の月に「数学・物理通信」は発行してきたが、9月からは少なくとも半年は休刊する(この期間が延びるかどうかは私の仕事の進行次第である)。しかし、バックナンバーは「数学・物理通信」で検索してくだされば、見ることができる。大学の物理数学を学ぶのに役立つ記事も書いてあるので、役立ててほしい。

(2024.3.8付記)上に書いた(2023.8.7付記)のようにはできず、「数学・物理通信」は休刊せずに続けて発行している。しかし、発行月に2号発行していたのを1号だけの発行に減らしている。

投稿を続けてくださる方がおられて、休刊とはできなかったのである。ありがたいことである。「吹けばとぶよな、将棋のコマ」ではないが、なかなか「数学・物理通信」も「吹けばとぶよな」ミニコミ誌のようなものだが、支持してくださる方がおられる。

確かに私が編集・発行を止めるといえば、止められるのだが、生きているということはそういう簡単なことではなさそうだ。

たまたま昔のブログを見て下さった方がおられたので、現在の状況をここに報告しておく。