ゴールドスタイン『古典力学』(吉岡書店)上が6月25日に発行された。
数年にもわたる労力の結果である。それも3人の力の集結されたものである。江沢、渕崎さんの労力も大変なものだったろう。
彼らは大学での公務の傍らの仕事であった。私は昨年の3月に大学を定年退職したから少しは時間がとれるようになったが。訳は第2版にくられべれば、だいぶくだけたものになっているはずである。
大きく変わっているのは第7章の相対論のところが微分形式が導入されている。また第3章で3体問題が入っているところなどである。
ゴールドスタイン『古典力学』(吉岡書店)上が6月25日に発行された。
数年にもわたる労力の結果である。それも3人の力の集結されたものである。江沢、渕崎さんの労力も大変なものだったろう。
彼らは大学での公務の傍らの仕事であった。私は昨年の3月に大学を定年退職したから少しは時間がとれるようになったが。訳は第2版にくられべれば、だいぶくだけたものになっているはずである。
大きく変わっているのは第7章の相対論のところが微分形式が導入されている。また第3章で3体問題が入っているところなどである。
昨日「舞踏会の手帳」という白黒のフランス映画を見た。久しぶりにフランス語の美しい響きに触れた。これでもテレビとかラジオで数十年フランス語の入門コースを聞いているので、かなりの部分が明瞭に聞き取れたが、それでも1/3くらいだろうか。
話はクリスチーヌという女性が夫が亡くなったあとで、自分が社交界にデビューしたはじめての舞踏会のときの手帳を見つけて、そのときに「一生愛する」と囁いた男たちを訪ねてみるという話で、20年後の男達の実情にクリスチーヌは幻滅を味わう。
16歳のときに舞踏会で社交界にデビューして20年後のということだから、クリスチーヌはまだ36歳だが、湖に面したお城のような自宅に住んでいる。お話がどこかのものかはわからないが、どうもスイスかイタリアのコモ湖あたりの雰囲気である。
この映画は上映は愛媛大学の数名の教員の尽力で「愛大名画座」と称して、一月に一回ぐらい上映しているものの13回目だった。新聞にその内の旧知の一人古川先生の紹介が前にあったが、忘れてしまっていた。
ところが宇和川先生を訪ねたときに偶然古川先生に会って昨日の映画会の宣伝ビラをもらった。私のように言葉の勉強のために映画を見に行くというようなのは論外だが、映画はやはり一つの文化であろう。
いま大学は各教員に渡される研究費や旅費は数年前の1/3くらいになっている。それでもやりくりをして研究者は生き残りをかけているのだが、それも難しくなってくる。文化活動を支援するというだけではなくて学問の財政的な支援をどうやってするのか。一番の問題であろう。
九州・中国・四国地方の一部を地震が襲った。6月12日の未明である。松山は震度4であったが、マンションの12階は相当にゆれた。朝5時ごろのことであった。
新聞配達のお兄さんが廊下を走っているので、その振動が大きいなと思ったら、それは地震のp波の縦波でその後にs波の横波がぐらぐらときた。時間にして30秒くらいだろうか。結構長く感じた。もちろん振動がすぐに納まるはずがないのでその振動が持続しているために長く感じたのだろう。ゆらゆらとかなりゆれたが、どこで起こった地震かを知るために起きていってテレビをつけたが、割合に早く地震の起こったことが報道された。一番強いところで震度5であったので、安心してまた一眠りした。
室内の物はどこかに落ちているということもなく芸予地震ほどはひどくはなかったことがわかる。芸予地震のときは研究室のファイルキャビネットが数10センチ動くほどであり、自宅の灯篭が倒れた。それにしてもこの地震のエネルギーはすごく大きいものだが、これを利用するということは雷のエネルギー同様にできないのが、残念である。
木曜の夕方はドイツ語のコースがあるが、でも木曜日の午後になるとほっとする。やれやれ今週もなんとか仕事が終わったかと。
それはそうとMathematical Association of Americaという団体から加入をしませんかという手紙をもらった。どういう団体か知らないのだが、どうもアメリカの数学教育関係の団体なのではないかと思う。いわゆるアメリカ数学会とは違うようだ。数学会はMathematical Societyというだろうから。
どうして私の名前が出たのかはしらないが、活発に動いている団体があるのだろう。日本でもそのような団体があるのかもしれないが、よくわからない。私も数学教育について感心を持っている者の一人ではある。
以前に湯川・朝永生誕百年の展示を愛媛大学で行う予定であるとの記事を出したが、これが意外に費用がかりそうである。京都大学の基礎物理学研究所の所長の九後さんからのメールによると、一番費用をかけなくても150万円ぐらいはかかるらしい。
愛媛大学の方も私もそんなに費用がかかるとは思っていなかった。でもいまさら引くわけにも行かないから、もし費用が十分に大学から出ないならば、募金をするということで展示はするという意思を九後さんに伝えた。
この頃は募金しても協力してくれる人はあまりいないと思えるし、募金をしてくれる会社もあまりあるとは思えないから、私財を投入してでもやる覚悟を決めている。展示をするならもちろん入場料を無料にすべきだと思っている。
正直言ってどのくらいのインパクトがあるものか計りかねるが、こういうものの効果はお金で換算できるものではない。いま、私が声をかけて参加した、九州大学、広島大学も含めて6大学が参加を表明している。金沢、宮崎、北海道、愛媛大学である。東北大学や名古屋大学は今のところ入っていない。150万円の費用がネックだろうか。
この間二男のtetsuroの話を聞いていて、構想が必要なのは学問とか教育とかばかりではないなと思った。彼はある会社のサーバーの管理をしている。いわゆるSEなのだが、やはり構想が必要らしい。
というのはサーバーは世間一般からのアクセスで限度一杯に使って欲しいのだが、といってそれがパンクしてはシステムが動かなくなる。サーバーの容量を上げればいいのだが、利益がまだ十分上がると保障されていない段階ではサーバーの容量を上げて、会社の支出を上げるのは憚られる。
ということでストレスを抱えている。どういうふうにその辺の移行をスムースにするかという点が腕の見せ所だと思っている。しかし、それを同僚に話して問題意識を共有するところまでは行っていないという。
それを聞いてわが子自慢で申し訳ないが、そこまで二男が成長しているかと驚いたと同時に知恵というものをもっていることに感心した。知恵は誰かからの教育で身につけられるものではない。自分のものである。
知識は教育で身につくかもしれないが、知恵はその人の持って生まれたものである。私はいつも知恵とか叡智とか言うものに尊敬の念を抱いている。
話が突然変わるが、量子力学の創始者の一人Bornが後年語ったところによるとゲッチンゲン大学の彼のところで学んだ人たちの中からオッペンハイマーを中心とした原爆をつくった一群の原子物理学者たちが現れたが、彼等は確かにcleverではあったが、自分はもう少し彼等がwiseであって欲しかったと。
この話は私は湯川さんの講演録を読んで知ったのだが、(私が25,6歳であったろうか)その頃から知恵とかwisdomとか賢さというものに敬意を払うようになった。もちろん、知識もないよりはあったほうがいいが、そういうものにはあまり重きを置かなくなったように思う。
いくつかの授業を非常勤講師として行っている。いままで何を話すかということについてあまり考えたことがなかった。これは工学部の量子力学の講義を30年以上やっているとそういうことはすでに出来上がってしまっていたからだ。
ところが、同じ量子力学でも理学部ではちょっとちがってくる。そうすると何を話すかという構想が重要になってくる。それが決まれば、ノートを作る事だってそんなに苦にはならない。かなり時間をとっているのはやはり構想を立てるところだ。この構想を立てる段階では居眠りしたり、ぼんやりとしていたり、音楽を聞いていたりして怠け者のようである。
基礎物理学の講義でもそうだ。何を教えるかということは何を教えないかということかもしれないが、それを選ぶのにやはり時間がかかっている。それが決まれば、後は単に労力の問題である。いやまだ少しは知的作業が残ってはいるが、それでもその段階まで行くと気はもう重くはない。ある種の晴れ晴れとした気分で準備ができる。
これは別に講義に限ったことではない。数学エッセイーを書くにしてもそのほかのジャンルのエッセイを書くにしても同じである。そのための要件は何なのだろうか。常に問題意識を持っていることだと思うがちがうだろうか。
この問題意識をもつということだが、それはどこから来るのか。人間としてまっとうに生きるということから来ているのではないだろうか。それはなんでもよい。若い人なら恋の成就のためでもよい。ただし、自分勝手な利己的な考えではいけないであろう。自己向上のために何をなすべきか。これは他人から見たときの自分の魅力を示せるかどうか。
いま私は具体的には対数と指数について考えている。そのエッセイを書き始めたところだが、まだ終わりまで見通せてはいない。さてこれについての構想はどう発展していくのだろうか。