物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

『物理数学散歩』の目次

2025-02-24 12:00:00 | 物理学
小著『物理数学散歩』(国土社、2011)の目次をここに挙げておこう。

1. 単振動の合成
2. 立体角
3. 自然対数の底eの近似値
4. arcsin x+arccos x=n/2を理解する
5. 微分をして、積分を求める
6. 母関数の方法
7. 関数の定義
8. ラプラス演算子の極座標表示
9. Legendre変換
10. 分岐点の定義
11. 積分公式の場合分けはいらない?
12. ベクトル積の成分表示
13. ベクトルの3重積の公式の導出
14. rot rot A=grad divA-ΔAの導出
15. テンソル解析の学習における問題点
16. 「Levi-Civita」再論
17. 「Levi-Civitaの記号の縮約」再々論

である。

この本はアマゾンコムでもAmazonのマーケットプレイスに出品されているものであるが、自著でもある。委託して販売をお願いしたのであるが、本当はとても役立つ本だと思う。

出版社との関係からうまく売り出せていない。それで、まずはお披露目したい。売価2,200円は安い(注)。安いと価値がないと思われるのが、残念だが値段以上の価値があると思っている。

内容の一部紹介をしておこう。

(2. 立体角)
だれにでもわかる立体角の説明はいまでは各所でみられるようになったが、私が書いたころには立体角の説明はほとんどなかった。いまでは「予備ノリたくみ」さんの本には私の本よりも詳しい説明がある。しかし、本質的なところは逃してはいないつもりである。

(5.  微分をして、積分を求める)
これは『ご冗談でしょう、ファインマンさん』(岩波書店)のある章のエピソードをエッセイの書く動機としたものだが、そういう動機づけが面白いと自分では思っている。この同じことをエッセイとして取り扱った本やエッセイもぼつぼつ現れてきている。

要するに、定積分の被積分関数の中にパラメータがあれば、そのパラメータで微分することによって定積分の値を求める方法である。この方法を使って多くの積分をファインマンはやって見せたので、積分なら何でもできる男との評判をとったという(2024.5.13付記参照)。

ファインマンは単に自分の知っていた方法が役立っただけだと言っているのだが、この方法はあまり学校の講義では強調して教えられることがない。それで私も悪乗りしてみたのだ。

私も「数学・物理通信」に3つほどその後同じタイトルでエッセイを書いている。関心のある方はインターネットで検索してみてほしい。

(6.  母関数の方法)
これは伏見康治先生の本『伏見康治著作集』(みすず書房)のある巻のエッセイからヒントを得て書いたエッセイであるが、中身は量子力学でも出てくるエルミートの多項式について述べている。要するに母関数の方法が重要だとの認識を伏見先生に教えてもらったから書いた。エルミートの多項式は母関数の方法の使えるほんの一例にすぎないが。

(7. 関数の定義)
高校の数学の先生なら、「ははあ、関数をブラックボックスと見るという関数の定義だな」と推察されるだろうが、そういう見方だけではなくもっと広い関数の定義について述べている。

もっともそれを知っていて、高校で数学を教えるときに役立つかなどと功利的な考えの人にはまったく役立たないだろう。だが、いろいろの関数の定義のしかたがあるのを楽しむ余裕のある人には世界が広がるかもしれない。

最近では若い人は私のような老人とはちがって特殊関数のことをあまり学ばないとか言われている。なんでもコンピュータが計算してくれるからだとか。

(8. ラプラス演算子の球座標表示)
量子力学、特に、水素原子の電子の状態やエネルギー準位を求めるときに球座標表示(3次元の極座標表示のこと)を使う。もっとも直交座標から球座標にラプラス演算子に変換するのは一苦労である。普通には一度直交座標系から円柱座標系にしておいて、それから続いて極座標系に変換する方法が用いられる(注1)。

だが、そういう便法を使わないで直接に直交座標表示から球座標表示にするのが正道の方法ではないかという思いにとりつかれてしまった。

このやり方でその途中の計算をきちんと書いた本は最近はないわけではないが、昔はそんな面倒な計算を書いた本などなかった。これはE大学に勤めるようになってから、佐々木重吉先生ご本人から先生の著書『微分方程式概論 下』(槙書店)に書いてあると教わったが、それを参考にしている。

だいぶん後になってだが、上の方針でまともに計算したエッセイを読まれた、場の量子論で高名なN先生にこういう計算を学生にやらせるのは数学嫌いを助長するのではないかとのご批判をいただいた。もっともである。

その後、「数学・物理通信」に類似のエッセイをいくつか書いている。そしてそれらの中には、肝を冷やすようで面倒なこの種の計算を少し簡潔にできる方法で述べているものもある。関心のある方はインターネットで検索してほしい。

(9. Legendre変換)
Legendre変換の一番よく知られた例は解析力学のラグランジアン L からハミルトニアン H への変換である。H=p \dot{q}-Lだったかな。

もっとも解析力学を学んだ頃はそういうことはまったく知らなかった。ハミルトニアン Hへの変換は変な変換だなという印象しかない。 これがLegendre変換であることを知ったのは大学に勤めるようになってからである。このことは後年私も訳者の一人となったゴールドスタイン『古典力学』(吉岡書店)の初版を読んで知った。

だが、それよりも熱力学の第2法則での内部エネルギーUから、エンタルピーH=U+pVへの変換、ヘルムホルツの自由エネルギーF=U-TSとかギッブスの自由エネルギーG=H-TSへの変換がLegendre変換だとは物理化学の本でようやく知った。これらは物理化学でも天下りで定義として、教えられているのではないだろうか。

これはムーアの『物理化学』上(東京化学同人)を読んでようやく知ったことである。熱力学を学ぶのは物理化学の本からがわかりやすくてよいとは伏見康治先生のご自身の経験による教えだったらしいが。

(10. 分岐点の定義)
私のような頭のわるい者には複素解析の本に書いてある分岐点の定義はわからなかった。それがようやくわかったという、お粗末噺である。

だが、世の中の人はみんな頭がよくてわかってしまうらしい。

(12. ベクトル積の成分表示)
ベクトル積の成分表示を求める方法を書いている。最近ではこういうことを書いた本もときどき見かけるようになった。特に外国語の翻訳書に多く見かけるような気がする。私は原島鮮先生の力学の本から知ったと思う。『Feynman物理学』III(岩波書店)でもこの謎は解けないが。

(13. ベクトルの3重積の公式の導出)
ベクトルの3重積の公式 A*(B*C)=B(A・C)ーC(A・B)いわゆるbac-cabルールをどうやって導くか(注)。この公式の発見法的な導びき方を書いた本はいまではないわけではない。私はこれを原島鮮先生の力学の本から知った。最近ではこれについて書いた本もぽつぽつあるが、まだ一般的ではないのは残念である。

またここには書いていないが、ベクトルの3重積の公式の記憶法としては中央項ルールというのもある。記憶法は単なる記憶法ではあるが、計算するときには役立つ。

(注)bac-cabルールはベクトル三重積A*(B*C)=B(A・C)ーC(A・B)の記憶法の一つである。同じベクトル三重積(A*B)*C=B(A・C)ーA(B・C)をどう覚えるか。これにも役立つのが中央項ルールである。この中央項ルールの説明も「数学・物理通信」に掲載してある。インターネットで検索してみてほしい。

私自身はこの中央項ルールを知った後ではベクトル三重積の計算が嫌でなくなった気がする。

(14. rot rot A=grad divA-ΔAの導出)
これは『Feynman物理学』のFeynmanの発見法的な導き方と伝統的な、ただ公式を既知の事実として、その両辺を比べて正しいことを検証する方法とを並べて書いた。

なお、表題の公式の導出にはLevi-Civitaの記号を用いた方法が、Feynmanの発見法的な導出法以外にもある。

これは(15. テンソル解析の学習における問題点)の(3節 ベクトル解析への応用)で述べてある。ただし、Levi-Civitaの記号をフルに使ってではあるが。

(15.-17. 「ベクトル解析」関係)
標題はテンソル解析とかあったりするが、実は応用としてベクトル解析のベクトル代数関係には「Levi-Civitaの記号の縮約」再論とか再々論とかが役立つし、その前の「テンソル解析の学習における問題点」なども大いに役立つ。

この薄い本がすべてのことに役立つはずもないが、ベクトル解析の一部にはとても役立つ。ただ、あまりこの本の存在が知られていないのは出版社には、この書の価値がまるでわかっていないから。それよりもあまりに価格が低くて出版社の利益が出なかったことが理由だったかもしれない。

しかし、私のような多くの普通の人たちには目から鱗が落ちるような衝撃を与えるだろう。

(注)本来の定価は1、200円である。アマゾンマーケットプレイスに出品するにあたって、いくらか売価を値上げして申請されている。それがいくらだったか覚えていない。

(2024.5.13付記)
積分が上手だと聞いて記憶のいい人はマリー・キュリーの伝記を思い出すかもしれない。マリー・キュリーが積分が得意だったということがその伝記に書かれていたからである。

これは夫のピエール・キュリーは、学生が積分できないとか嘆いたら、「マリーが来るまでちょっと待ちなさい」とか言っていたとか書いてあったと思う。これがどこに出ていたのか、二女のエーブ・キュリーが書いた『キュリー夫人伝』にでもあったのだろうか。

要するに、微分は誰にでもできるが、基本的な積分を除いて、積分ができるためには、ある種の能力が必要だという証拠ではないかと思っている。

(注1)学生だったころにラプラス演算子の極座標表示に挑戦してみたことがある。1週間ほど頑張ってみたが、どうも計算がなかなかあわず残念ながら断念してしまった記憶がある。円柱座標を経由して球座標(3次元極座標系のこと)に変換する方法は当時学んだ高橋健人『物理数学』(培風館)に載っていたので、こちらの方は簡単にチェックできたと思う。

(注2)日本人は自分を自慢するのはいけない、慎むべきこととなっている。私自身も日本人だからそういうことも思わないでもない。しかし、外国人にとっては自己PRは普通のことである。そういう観点から自己PRすることにした。鼻につくと思う方はそう思えばいい。その覚悟はある。むしろ控えめであって他の人に役立たないよりは。

(2023.7.26付記) 実はこの本『物理数学散歩』と『数学散歩』についてはこれらの本のpdf文書を無料配布するというかなり多くのサイトができた。これは自慢しているわけではなく、事実を述べているだけである。

3,000円もしない本の無料pdf配布のサイトができたのはなぜなのか。多分、大学での数学のある分野に役立つからと思われたからであろう。そのときに著者の私のところには『物理数学散歩』の数百部の本が在庫していたというのに。これははっきり言って流通の問題であった。だれが価値がない本を誰がそのpdf資料を配布したりするだろうか。

インターネットの古本市場で一時14,000円などという高値がついていたこともある。そういう高い値段がつくのは著者としては心外であるが、「安かろう、悪かろう」の本ではないのだ。

昔、外国で出版された書籍を国内で闇で印刷して売るという海賊版があった。これはその当時日本円はとても弱くてそういう外国で出版された本など購入することが普通の日本人にはできなかったからである。いまでは私たちも外国の書籍をちょっと無理すれば、購入できる時代になった。だが、国内で『物理数学散歩』のような、現在の日本ではありえないような安価な書籍の海賊版が横行するとは信じられなかった。

(2023.7.27付記) ご注意を頂いたので付記しておく。『物理数学散歩』がインターネットで14,000円もの高値がつくのなら、2,200円で何冊かを買い占めてそれを14,000円で売ることを考える人がいるのではないかという心配である。

もっともなご心配だが、そういうよからぬことを考える人は成功しないことを知っておいてほしい。私は買っていただくことには反対はしないが。

ちょっと考えたらわかることだが、いくらいい本だと言っても、これは値段との相談であって、14,000円も出してこの本を買う人はいない。2,200円ならお買い得品であるが、そこを間違えてはいけない。私は14,000円という値段をつけた人がいたとは言ったが、それが売れたとは思わない。私だってたとえ喉から手が出るほど欲しくてもその高い値段を考えてやめにするからである。

小著『四元数の発見』(海鳴社)もpdf版が出回ったことがあった。いまは出まわってはいないと思うが。いまどき2,200円で買える本などあまりない。税込みだとそれよりはすこし高いが。それだって相当に安価な本である。それだのに無料のpdf版が出回るとはどういうことだろうか。日本の文化のために嘆かわしいことである。著作権もなにもあったものではない。

安いことが価値がないことだとは思わないでほしい。価値のあることを安くても良心的な気持ちで提供していることもあるのだから。この物価高の世であっても。

ちなみに私自身は著作権が死後50年というのを延長したいという考えには反対である。アメリカでディズニーの著作権を50年から70年に延長するという試みがあるとか、またはその延長が認められたとかとも聞くが、これはあまりに利益偏重で文化をないがしろにする話である。

(2024.6.23付記)
小著『数学散歩』だが、神田の有名な自然科学の古本店「明倫館」で6,000円で売っているのを今さっきインターネット「日本の古本屋」で見かけた。この書は私の手元にも自分用の数冊しか残っていない。

一方、『物理数学散歩』は多量の在庫があるのだが。

(2024.9.30付記)
小著『物理数学散歩』だが、神田の有名な自然科学の古本店「明倫館」で1,000円で売っている。

物理学から遠ざかって

2024-12-13 16:40:03 | 物理学
物理学から遠ざかって久しい。

元々物理学が専門なのだが、どうもあまり専門というには学がなさすぎる。

現在は数学教育に関心があるのだが、これだってもともと私が数学がわからなかったことが原因である。

だから「ただ塾」で数学ができないのではなく、それと接触したくないと思っている生徒さんと出会うと昔の自分を見ているような気がする。

数学と接触したくないと思っている生徒さんだって本当の心の底ではわかりたいとは思っているのだと想像をする。しかし、あまりにもわからないから、自分の数学のわからなさと向き合うのが怖いという感情がめばえてくるのだろう。

それでついつい持ってきたパソコンのゲームとかチャットを見てしまうという心理状況なのではなかろうか。

しかし、デカルトかだれかが言ったように、理性は万人に公平に分け与えられているので、その気になると数学だってできるようになるという素地は誰でも持っているのだ。

要は自分の数学のわからなさとじっくり対面できるかどうかであろうと思っている。それは一朝一夕にはできないが、そんなに無限の時間をかけなくてもできるのだと確信している。

問題はあまりにも無残な自分の現状から逃げないという気概ではなかろうか。しかし、それを持てと言うのは簡単だが、そういう心理状態をどうやって克服するのかという具体的手立てはどうしたらいいのかわからない。

しかし、この覚悟はなかなかつかないものだ。

Nさんの原稿から手が切れた

2024-09-27 19:24:27 | 物理学
今日、Nさんからメールが入って点検した原稿のプリントを送れと言ってきた。それで近くの郵便局に行って、レターパックを買ってきて、夕刻速達で出した。

実はすでに2度目のメールであわてて朱を入れた原稿のプリントを送らなくてもいいですとのメールをもらってはいたのだが。

自宅に置いてあった原稿のプリントを妻に持って来てもらい、ちょっとだけ疑問の箇所を検討した後にである。ポストに投函できないかもしれないとか郵便局の人には言われたのだが、悠々と投函できたのでやれやれであった。

ほぼ一か月この原稿に取り組んできた。これは偏に現在の社会の人に武谷三男の社会への大きな寄与を分かってほしいと思ったからである。多分、2000部の初刷でもなかなか全部を売るきることが難しい時代となっている。

だが、たとえば、武谷がその意義を明らかにした、許容量の概念にしてもこれは大いに日本の社会のみならず世界の人々に有用な概念である(2024.10.17注)。それとかECでは予防防御の原則とかいわれている原則があるが、これだって武谷の言い出した概念である。

もっともECの科学者にも同じことを考えた人がいるであろうと思われる。

ICPCだったかの放射線防護の原則を決めるときにも岩波新書の『原水爆実験』放射線許容量の考えのところをアメリカの核物理学者J. Orearが在米中だった日本人の物理学者(大阪大学名誉教授になった森田さんだったか)に英訳させて、それを参考にしたと聞く。

だから、ICPCの放射線防護の原則は武谷の考え方に基本的によっているという。

(2024.10.17注)世に許容量という語が使われている。この言葉を、たとえば、人体に受けた放射線量で説明すれば、このときの許容量は人間が受けても無害な線量を意味するのではなく、そうではなくて放射線は人間にそもそも有害なので受けないですめばそれに越したことはない。

だが、放射線を受ることによって受ける利点があるのならば、その利点との兼ね合いで放射線量を我慢できるというような意味であるという。

利点とはたとえば、放射線技師なら、職業上の給料を得て自分の生活を成り立たせているというようなことをさす。もしそういう利点がないのならば、放射線を受けることは人間にとって有害であって少量であっても受けるべきではないという。

こういう概念はなかなか普通の人が理解するのが難しかもしれないが、わかっていただけだろうか。

折々のことば

2024-09-27 12:12:01 | 物理学
朝日新聞の第一面に哲学者の鷲田清一さんの「折々のことば」が載っている。

昨日今日は写真家の土門拳さんの写真集『風貌』からのことばが載っていた。

 気力は眼に出る。
 生活は顔色に出る。
 教養は声に出る。
             土門拳

土門拳はつぎのようにも書いていると鷲田さんは書く。
 「本人が欠点と思っているところが、実は案外、唯一の魅力だったりする」

昨日も何か鷲田さんは書かれていたのだが、これは昨日の新聞がもうどこへ行ったかわからないので書けない。だが、これを読んで思い出したことがある。

若いときに半年だけ京都大学の基礎物理学研究所の非常勤講師をしていたことがある。一般の人にわかりやすくいえば、ここは湯川秀樹先生が所長をなさっていた研究所で、彼の定年前の2年前の頃である。

所長室の隣の小さな会議室で昼食を一緒に所長も含めて所員が食べていた。この昼食後のあるとき、湯川さん本人から土門拳の写真をとるときの手法について聞いたことがある。

土門が湯川さんの写真をとるために来たときのことだが、彼は顔を見合わせるなり、腹の立つようなことを言うのだという。これが土門の写真を写すときの手法だったのだろうと湯川さんは述べていた。

怒ったときにその人の本性が現れると土門は考えていたのではないかと。

いずれにしても写真家にはすべてお見通しであったのだろうか。怖い怖い。

『武谷三男の生涯』2

2024-09-26 11:49:49 | 物理学
『武谷三男の生涯』のチェックがそろそろ終わりにできそうだ。まだ終わったわけではないが、終わりが見えてきた。

この間も妻が「鶴見さんとの約束を守れそうだね」と側でつぶやいていた。これは私が武谷三男の伝記を書きたいと言ったら、いまにも武谷さんのファンだった京都在住の女性を鶴見さんが紹介してくれそうだったのだが、「いや先生が生きている間には無理かも」と弱音を吐いたので話はそれ以上には進まなかった。

『武谷三男の生涯』の注がちゃんと引用部分と対応しているかどうかをチェックしているのであるが、それがほぼ終わろうとしているのだ。

それが終われば、もう一度全文をチェックするつもりである。それが終われば、私にできることはない。著者のNさんに原稿のプリントに赤字で訂正箇所を示唆した草稿のプリントを送って私の仕事は終わる。

「他人から見た武谷三男」

2024-09-04 12:49:02 | 物理学
「他人から見た武谷三男」とは私が徳島科学史雑誌に連載している論文のタイトルである。現在このシリ-ズを8まで書いている。

あと私の取りあげる予定のテーマは中村静治の『技術論論争史』(創風社)だけが残っている。しかし、これを取りあげることがいまなおできていない。

シリーズを終えるにはどうしてもこれを取りあげないわけには行かないのだが。

先日も徳島科学史会のSさんから「あのシリ-ズは終わりですか」とか聞かれたのだが、取りかかる気がいまのところ起こらない。というより現在の時点としては、もっと優先したいことが私にあるのだ。

現在の課題としてはNさんの『武谷三男の生涯』の原稿を点検することが優先されるであろう。これは私の著作ではないが、きちんと世に出す必要が武谷三男の研究をしている者としてはあるだろうと判断している。

これが9月になったのに「数学・物理通信」の発行に私がなかなか移っていけない大きな理由である。『「数学・物理通信」は休刊します』といいたい気持ちがすこしはあるのだが、そうもいかない。




武谷三男についての研究も

2024-09-03 11:22:12 | 物理学
武谷三男についての研究も実体論的段階に入った感がする。

これは先日以来私の読んでいるNさんの『武谷三男の生涯』を読んで私の頭に浮かんできた考えである。

私は現象論的段階というつもりで武谷の「著作リスト」とか「業績リスト」とかを素粒子論研究とその電子版に発表してきた。

ところが武谷史料室ができて、そこで武谷の子ども時代とか学生時代その他の資料を見ることができるようになった。これにふんだんに触れてNさんの『武谷三男の生涯』のような労作が出来てきた。

それで武谷三男についての研究も実体論的段階に入った感がするのである。本質論的な研究が私もふくむ武谷三男の研究者にできるのかどうかはまだわからない。だが、そういう研究をしないことには私には十分な研究が行われたとは思えない。

だが、Nさんの『武谷三男の生涯』は実体論的段階の研究であり、優れたものである。出版されて多くの人が読んでほしいと思っている。


初読後にメモをつくった

2024-08-31 15:49:12 | 物理学
Nさんの原稿『武谷三男の生涯』の初読後に彼に修正箇所等を知らせるためにメモをつくった。

昨夜からつくっていたのだが、さきほど出来上がってようやくブログを書いている。どうも胃腸を壊しそうである。ひどくなければいいのだが。

昨夜は12時過ぎに一度就寝しようとしたのだが、眠れず起き出してきて午前2時ごろようやく眠れた。最近の私には珍しいことである。

はじめちょっとNさんの原稿『武谷三男の生涯』に不満を感じたのだが、最後まで読むとNさんが現在できるすべてのことを行って本の原稿を書いたことがうかがえて評価の意見が私自身変わった。

もっともこういう本が出ても読んでくれる人は日本人でも本当に一握りなんだろうなと思うとさびしい思いがしないでもない。だからと言って本の価値がないというわけではないのだが。

『武谷三男の生涯』1

2024-08-30 13:37:56 | 物理学
先日からNさんの書いた『武谷三男の生涯』という伝記の原稿を読んでいるが、昨夜第一回の読みは終わった。

少なくとも2回は読んでおきたいと思っている。書かれた内容に不満な気持ちがあると昨日書いたが、どうしてどうしてよく書けているとの判断に変わった。

これは武谷三男みたいな人は現在まったくいないからであり、彼のことをできるだけ多くの人に知ってもらいたいという気持ちで一杯である。

そういう意味でとても余人をもっては代えがたい人であったと思う。

いくらかの学問上のミスはあったかもしれないが、大局的には大きな寄与をした方であり、こんな人はいまの日本にはまったくいないからである。

彼は若いときに湯川秀樹の中間子の理論の発展に協力した人としてしか記憶されていないかもしれないが、単なる物理学者の枠にははまらない。

彼はどこからも賞をもらわなかったが、そういうところが彼らしいかもしれない。日本だけでなく、世界の人々に大きな寄与をした人だと思う。

そのことをNさんの『武谷三男の生涯』は世間の人に改めて知らしめることになるのだろうか。武谷が亡くなってはや四半世紀が経つが、彼の生涯がNさんによって近いうちに世に出版物として示されることになるだろう。


昨日も原稿を読んだ

2024-08-29 12:49:33 | 物理学
昨日も原稿を読んだ。Nさんの『武谷三男の生涯』である。Nさんは故武谷三男邸を訪ねて武谷の残した文書等についてレポートをしたことのある、科学史研究家でもある。

なかなか詳しい説明がある書の原稿であり、すべてに通じているわけではないが、たぶんこの書を越える谷三男の伝記はでて来ないだろう。

だが、それにもかかわらず不満がないわけではない。それは武谷の業績の評価がある意味では不足していると思うからである。

その点をNさんにこのことをメールで尋ねたら、自分以外の人にそのことはしてもらいたいというようなお考えらしい。なんでも人一人のすることには限界があるし、観点もちがうからしかたがないのであろう。

本書の本文は207ページである。それ以外に注が40ページくらいある。私の一度目の読みはいま157ページまで来ている。本文だけでもまだ50ページほど残っている。


他の仕事ができない

2024-08-27 14:22:34 | 物理学
Nさんの『武谷三男の生涯』の原稿を読み出したら、他の仕事はまったくしなくなった。これはいいことなのか、悪いことなのか。わからない。

普通はラジオを聞いたり、ラジオ体操をしたりしているのだが、そのことを忘れてしまった。

9月になれば、「数学・物理通信」の投稿があろう。それで『生涯』の閲読に精を出しているということもある。

台風はやって来ているのだが、まだその影響が松山に及ぶには数日かかりそうだ。


エントロピー

2024-08-22 13:51:13 | 物理学
微小エントロピーdSを微小熱量d'Qに積分因子1/Tをかけて
  dS=d'Q/T
で定義すれば、こうして定義されたエントロピー状態量となるとどの熱力学の本にも書いてある。

数学の式として不完全微分であったものが積分因子をかけて完全微分になるという例があるのは知っているのだが、もう一つピンとこない。そこのところを多くの熱力学の本にどう書かれているのだろうかという疑問を持っている。

もう一つのよく知られたことは内部エネルギーUは状態量であるので、dUと完全微分で書かれるが、これは熱の不完全微分d'Qと仕事の不完全微分のd'Wの和である。

 dU=d'Q+d'W

となるという疑問もあるが、こちらの方はまだよくわかったわけではないが、ムーアの『物理化学』上(東京化学同人)の「熱の力学的定義」という節だったかに説明があってそれを読んで納得したという記憶がある。

いま急遽ムーアの『物理化学』上を書棚に探したのだが、見当たらなかった。しかし、こちらはすでに解決済みであると思っていい。

だが、もう一つのほうはまだdS=d'Q/Tの方はそのことについてはっきりと書かれた文献を知らない。そのうちにどこかできちんと書いてある文献に出会うことだろうか。

これはこのブログでも書いたことがあると思うが、温度Tは相転移があるときには変わらないのでエントロピーの導入の理由はそういうことのためにもあるということだ。

算数といわれる初等数学においても遠山啓さんらが提唱した量の理論では示量変数といわれる量は外延量と呼ばれており、示強変数は内包量と呼ばれている。

私はこういう名前の量のことを知ったのは多分40歳代であった。熱力学は大学で単位はとったのだが、そういう示量変数とか示強変数とかの名も聞いたのかもしれないが、覚えていなかった。


理論物理学者と計算物理学者

2024-06-29 15:50:12 | 物理学
理論物理学者と計算物理学者とはどういう意味の違いがあるのか。

昔は実験をしない物理学者を理論物理学者と呼ぶことが多かった。ところが私が学生のころに大学を退職した理論物理学者の三村剛昂先生がおられた。

彼は理論物理学と数理物理学とを峻別された。数式を使って計算するが、哲学のないような物理学のことを彼は数理物理学と呼んだのであった。その後
コンピュータが進歩してきてもっぱら計算に頼って物理学の研究をする者を計算物理学者と呼ぶようになった。

最近では国際的な計算物理学会まで開催されるようになってきているので、あまり計算物理学者と称しても肩身が狭いことはない。

それにしてもトップのレベルには理論物理学者がおり、そのすぐ下に数理物理学者がおり、そのはるか下に計算物理学者がいるという構造になっている。

もっとも私などはその最下位の範疇の計算物理学者にも入れていたのかどうかは定かでない。



計算嫌いな計算物理学者

2024-06-29 15:31:11 | 物理学
計算嫌いな計算物理学者がいるものかどうか。

私は自称では元計算物理学者だが、計算嫌いである。それでも鋭い直観とかをもっていれば、生きていく方法はあろうが、そういう才もない。要するに何の取り得もない。

ただわからないところを納得したいという欲求だけはもっている。それも普通の人ならなんでもないことがわからないという具合だから困ってしまう。困ってしまうというか最近ではそこに居直って自分の特色だと思っている。

いや、こんなことを書いているのは理由がある。先ほどまでただ塾の中学校数学の先生を務めていたのだが、生徒さんがまったく計算問題をやってくれない。それでこまって難しそうな問題のどれを解いてみせたらいいかと、尋ねて数問の連立方程式を解いてみせた。

こういうことの繰り返しで少しづつ関心をもってくれたらいいのだがと思っている。

私も中学生時代に計算嫌いの中学生であったから、この中学生の気持ちはわからないでもない。一般に数学の好きな人は数式の計算や数の計算でも嫌わないようだ。

高校生のころだが、問題集の中にある私には全く面倒だとしか思えなかった計算問題もすべて同級生のO君が解いているのを見せてもらったことがある。

このO君は有名大学のK大学工学部電気工学科を卒業して日本電気だったかに勤めておられた。優秀な方はまったくちがうものだと思っている。


今日か明日かのつもりだったが、

2024-06-25 15:35:40 | 物理学
今日か明日かのつもりだったが、昨日数学・物理通信14巻4号を発行した。一日二日かが待てないくらい私はせっかちである。

送付先だが、78か所だと書いたが、あと9か所増えて87か所である。自分の出身の大学の研究室のOBの方に送付していたことを忘れていた。

待ちきれないというのは私のわるい癖だが、それだけではない。いつまでも懸案の事項が残るのは嫌だという気持ちがある。そういうことでご了解を得なくてはならない。

編集と発行にかける時間は結構かかるので、こういう作業をしたことのある人ならわかってもらえるのだろうか。時間がかかって嫌だという気持ちを。

もっともそれならそういう雑誌の発行を止めればいいではないかというご意見を持つ方もおられようか。

その志の高さを評価してほしいものだと思うのだが。もっとも、これは自分が好きでやっていることだから別に他人からほめてほしいわけではない。

いや、誰かから少しほめられたくらいで、続けてやれるような種類の仕事ではないと思っている。

編集人は私も含めて3人だが、筆頭の編集者の友人の数学者Nさんは現在施設に入っており、私の編集を手助けしてくれる状況にはない。でも彼が私の提案を快く受け入れて賛同してくれなかったら、このような雑誌は発行できなかったろうから、Nさんには感謝の念しかない。

ここ数年編集者として働いて下さっている、Sさんには難しい論文の査読で大いにお世話になっている。彼なしの数学・物理通信は考えられなくなっている。