物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

名前の違い

2011-03-31 12:34:49 | 日記・エッセイ・コラム

名前といえば、人の名前だろうが、今はそのことではない。東北関東大震災とNHKでいっているので、それが定着した言い方かと思っていたら、朝日新聞とかテレビ朝日では東日本大震災といっているようだ。これは自分たちの言い方を固執しているのかどうか。

神戸の大震災は阪神淡路大震災というのが普通のようだが、この地震は最終的にどう呼ばれるようになるのだろうか。

原発事故の方はこれは人災との見方が強まっている。これは私などもはじめから人災との観点をもっていたが、一般の見解になるようである。国策としての原発を推進してきたのは何十年も政権をもっていた自民党である。

そしてその反省が自民党の中にあるのかどうか。反省というか見直しはもう全世界的であり、原発ルネッサンスといわれた短い期間は終わった。もともと原発ルネサンスとは企業の論理での原発の売込み政策であって、それが地球温暖化との危機感から追い風に乗っていたに過ぎない。

ある集まりでチェルノブイリの原発のように石棺という蓋をしたら、どうかという意見が出たが、それは原子炉の冷却がうまくいった場合でその行く先が分からない段階で石棺のような蓋ができるわけではない。しかし、そういう発想が物事を知らないからという理由で出ることはしかたがない。

「止める、冷やす、閉じ込める」というのが原子炉事故の対策の3原則だそうである。止めるはまず機能したが、「冷やす、閉じ込める」はまったくできなかった。そのときに想定外の津波が来たというのを言い訳にするとすれば、これは技術の思想としては最低である。

世界のどこかで起こったことは、いつかは自分も経験することでもあるという事実に思いを致さなければならない。


津波の夢

2011-03-30 12:01:41 | 日記・エッセイ・コラム

月曜の朝方に夢を見た。これは兄の家が津波に襲われた夢である。この兄はすでに15,6年前に亡くなっているのだが、もちろん家は残っている。そこにはいつもは誰も住んではいないのだが、ときどき甥の一家が帰って来ては泊まっている。

その家が大きな津波でさらわれて跡形もなくなっているという夢である。もっとも夢ではその跡を見るとどうも家ではなくて船がそこにあったようでもあった。これは実際にテレビの画面で大きな船が津波で押し流されていくのを何度も見たせいでもあろうか。

その津波で家が押し流された結果として誰か身内が亡くなったというのは夢では出てこなかったような気がする。これは多分、テレビで津波の映像をなんどか見たが、まだ自分にそれほど身に迫っていないからであろうか。

今日の朝日新聞の天声人語のコラムでは原発が科学の産物であるよう書き方をされていたが、科学は何かをするという目的をもっていない。だから、原発は技術の産物ではあっても科学の産物ではない。もちろん、現代の技術は科学の成果に基づいていることは確かだけれども。

科学が目的を持たないのとは違って、技術には必ず目的がある。これが科学と技術の大きな違いである。上述の天声人語氏の批判の内容は当たっていると思われるが、ただ科学と技術を混同しているのは頂けない。

しかし、賢明なジャーナリストであると思われる天声人語氏にしてもそうであるのならば、一般の人には原発は科学の産物であると思われているのだろう。天声人語氏のみならず、心ある人々には星野芳郎の技術論を学んで欲しいものである。

数十年前に岩波書店から出版された岩波講座「基礎工学」の中にある、星野芳郎の「技術の体系」のはじめの部分に科学と技術との違いが明確に述べられている。私は何度かこの科学と技術の違いを工学部の新入生のオリエンテーション講義で話したことがあった。

しかし、他のところで科学と技術の違いを、ここに書いてあったように、明確に書いてあるのは読んだことがない。


新学期

2011-03-29 11:01:48 | 日記・エッセイ・コラム

もう私は学校とは関係がないのだが、それでも日本では新学期である。日本ではなどというと外国では違うのかといわれるだろうが、全世界でどうなっているのかは知らないが、新学期は9月に始まるというのが、世界の常識ではないだろうか。

ところが日本では桜咲く4月が入学の季節であり、だれもそれを疑わない。それでも昔は日本でも高等学校は9月入学だったらしい。いつごろから4月入学になったのかは知らないが、ずっと以前には6月か7月に旧制高校の入学試験があったらしい。そして9月入学だった。

どうして9月入学が世界的かというと、ヨーロッパでは冬が厳しく、夏に十分に太陽を皮膚に吸収しておかなくては冬を乗り切れないということがあるらしい。それで、夏は十分に休んで休養し、体力的に冬の厳しい寒さに備える。

フランスのバカロレアの試験がいつあるのかはよく知らないが、日本のように2月とか3月ではあるまい。多分4月か5月ころではなかろうか。バカロレアの試験は日本の大学入試と同じように厳しいものらしい。これは大学入学試験ではなく、リセ(日本の高校にあたる)の終了試験だが、それに通ると大学の入学資格を得るから、実質的な入学試験だという。

それに大学だけではなく、グランゼコールといわれる大学よりも入学の難しいいくつかの学校があり、フランスのエリートはそのグランゼコールを目指すという。そこを卒業すれば、国の指導者レベルとなる。


小人閑居して

2011-03-28 13:30:38 | 日記・エッセイ・コラム

いつものごとく日曜日は自宅でコタツに入って庭を眺めたり、テレビを見たりして過ごした。Yさんにインタビューした録音のテープ起こしを少しだけしたが、どうも遅々として進まない。

このテープを聞き取るだけでは十分ではなく、これをワープロに入力をする必要がある。これもウイークデイに少しづつはじめているが、すぐに疲れてなかなか続かない。

世の中では東北関東大震災とそれから引き起こされた原発事故でもちきりである。特に原発事故はどうも人災的な要素が大きいが、東京電力が補償する額は1500億円までだとかと言われている。

20年前にはソビエト型社会主義が崩壊して、資本主義の勝利とかいわれたが、なんのことはない。資本主義の敗北ではないか。そしてその大部分の原発事故の補償を東電が回避したわけではないかもしれないが、国にさせようとしている。

もっとも資本主義の中には国に予算をとらせてそれを自分たちの利益にするというのも入っているのであろう。しかし、それではもともとの資本主義からずれているとしか思えない。そのあたりが、日本はとても社会主義的な資本主義だと言われている所以なのであろう。

このところの自衛隊員の活躍で、本来自衛隊にあまりいい感じをもっていなかった私でもその活躍というか、献身ぶりは認めなければならないと感じるようになった。

これは特に民間の運送業者が原発の事故で原発の近くに物品の運送をしないということから、これは隊員は国から給与をもらっているからということもあるにしても、今回の地震、津波、原発事故の3点セットの災害に対して自衛隊員が、警察、消防、海上保安庁等とともに寄与したことを認めなければならない。


微分形式に触れた本

2011-03-26 12:42:36 | 数学

微分形式について述べてある、書籍で私のもっているものを上げてみよう。これは書いてある中味がどうこうという評ではない。順不同である。

1.北野正雄、新版マクスウエル方程式 (サイエンス社)

2.小林昭七、続微積分読本 (裳華房)

3.志村五郎、数学をいかに使うか (ちくま学芸文庫)

4.竹内 薫、アインシュタインとファインマンの理論を学ぶ本 (工学社)

5.山本義隆、中村孔一、解析力学 I  (朝倉書店)

6 和達三樹、微分・位相幾何 (岩波書店)

7.フランダース、微分形式の理論 (岩波書店)

8.高橋利衛、基礎工学セミナー (現代数学社)

9.  ゴールドスタイン他、古典力学 上 (吉岡書店)

10.  倉田玲二朗、数学と物理学との交流 (森北出版)

11.  森毅、ベクトル解析 (日本評論社)

12. 栗田 稔、微分形式とその応用 (現代数学社)

13.  佐々木重夫、数学演習講座 微分幾何学(共立出版)

こうしてリストアップしてみると微分形式のことを述べた本を結構もっていることがわかった。

2変数の積分での、積分変数変換のJacobianとの関係から導入したものが、一番自然だと考えている。それの元ネタは7のフランダースの書だと思うが、私がそのことを意識できたのは4であった。調べてみると2や6にも同じことが書いてある。

他の本にも書いてあるのかもしれないが、それらをよく読んでいないので落ちていてもお許しを願いたい。

9にも微分形式は触れられている。しかし、この部分を訳したEさんによると原著はMisnerたちのGravitationを参照したらしいのだが、どうもうまく要約できていないとのことである。だから、訳書の方ではEさんが努力をしてそのギャップを埋めようとされたのだが、うまく行っているかどうか。

(2011.3.28付記) 10が微分形式を使うという観点からはバランスが取れた記述をしている、よい書であるように思われる。倉田さんは亡くなってしまったが、彼は九州大学工学部でベクトル解析を微分形式で導入していたとこの書に書いてある。もっとも当時の学生さんには迷惑であったかもしれない。このことは倉田さんのお弟子さんの一人である、友人の数学者Nさんにいつか聞いてみよう。


メンデレーフと火薬

2011-03-25 13:14:03 | 科学・技術

saitamadorujiさんが「私の知的鍛錬法3」で書いた標題の件に関して調べて、メンデレーフが行った外国はイギリスとフランスではないかと彼のブログで書いている。

もともと私がどこで読んだかを覚えていないので、saitamadorujiさんの判断が正しいかどうかはわからない。

私のかすかな記憶では空気中の窒素を固定するという技術がドイツで発明されたということと関係している。空中窒素の固定とはもちろん今の農業の肥料の工業的な製造が可能になったすばらしい化学的成果である。

そしてそれがそれまでチリーから硝石を輸入して、火薬をつくっていたのが、チリからの硝石の輸入が必要がなくなったという点である。

だから、当然のこととしてドイツへ行ったと書いたのだが、本当のところはわからない。歴史的な事実はsaitamadorujiさんの今後の調査に待ちたい。それにしても私のあやふやな知識を追跡するということに尽力している人がいることに感謝をしたい。


on readingから2

2011-03-25 11:31:11 | 本と雑誌

先日、朝日新聞の読書欄に載った吉本隆明氏のon readingについて述べたが、その中で述べなかったことがある。吉本氏はレーニンが本当の意味でのマルクス主義の社会が実現したら、共産党は解散しようと「国家と革命」の中で言っていると書いてあった。

これはもしレーニンがもっと長生きしても実現していたかどうかは疑わしいが、そういう見解を持ち得た人はやはり違うという気がする。

それで思ったのだが、現在の社会で共産党の支配がまだ現としてある国は中国とか朝鮮人民共和国くらいであろうか。それにキューバも入るかもしれないが。中国ではいま一部で民主化の要求が出ているとも聞くが、それを政府が抑圧しているともいう。

抑圧されている者たちがすべて欲得づくであるとは言わないが、そういう方も居られるに違いない。そうするとなかなか民主化は難しいことになる。だからといって一方では共産党とか政府の要人であることから、その地位を利用した汚職や腐敗も結構多いとも聞く。そしてそれを政府がもし抑えているとすれば、必ずしも人民、国民のためではなかろう。

中国の現在の共産党が簡単に民主化の要求に応じるどうかは明らかではないが、それにしてもレーニンのような見解を持った人々が政権の中にいてもよさそうに思われる。

現在の政権の中枢を占めている人の思想がどうであるかを知ることはとても難しいが、現在をまだ過渡的な段階であると政権にいる人たちによって捉えられているだろうか。


微分形式

2011-03-24 12:55:38 | 数学

数学の「微分形式」というのを少しづつ何回か勉強しているが、あまり徹底的に勉強したことがない。それでも「うわっつら」の知識を得てきた。

素粒子物理学を研究している方々はみなさん秀才で、自分の研究にガンマ関数が必要とあれば、たちまちガンマ関数について修得するし、群の表現論が必要とあれば、またこれを短期間にマスターする。

「微分形式」もこのような分野の一つであったが、まわりの人がそれを学んでいるころにはいろいろな事情で一緒に勉強することができなかった。

それで、大多数の人よりははるかに遅れて「微分形式」を勉強しようとした。それでも私には十分に身につくまでには至らなかった。

そのうちに自分の関心が移っていって、それから遠ざかることになった。だからいつでもなんでも大事な数学についても身につかないでいることが多い。

昨日書いた志村五郎さんの本「数学をいかに使うか」(ちくま学芸文庫)では「ベクトル積から外積代数まで」に微分形式が出てきた。それで、また「微分形式」についての関心がもどってきた。

志村さんが言うように簡単なことさえ知っていれば、Gauss-Stokesの公式を導くことができる。

もっとも「数学をいかに使うか」では微分形式の肝心の式を論理的には導いていないで天下りである(と思う)。だが、それから微積分学の基本定理といわれていることをきわめて特殊な場合として導いている。

溝畑茂先生の書「数学解析」にはGauss-Stokesの公式は、この微積分学の基本定理の多変数への一般化であると書いてあることは、友人の数学者Nさんから何年も前に聞いた。

だから溝畑先生が教えられていた京都大学の出身の方は、上に述べたことを知って居られるらしい。

そういうことをきちんと講義で話をできる方が居られるということは、なんでもないようだが、数学を深く知るためには大切なことであろう。

私が発行している、「数学・物理通信」の共同編集者である、Nさんは京都大学の出身ではないが、学位を京都大学で山口昌哉先生の指導で取得された方である。学位論文に結実した研究について溝畑先生に実質的なアドバイスを得たといつも感謝をしておられる。


数学をいかに使うか

2011-03-23 13:21:17 | 本と雑誌

「数学をいかに使うか」は昨年の12月に出版された「ちくま学芸文庫」の一冊である。昨日E大学の生協書籍部に注文していたのが、届いたので取りに行った。定価950円である。

これはアマゾンコムで評判が高かったので、購入したのである。「ベクトル積から外積代数まで」「四元数環の重要性」「Cliffford代数とスピン群」等は興味深かったが、拾い読みをした範囲ではどうも私にはまだ不十分な感じがする。

これは書いてあることがというよりは私の個人的な求めているものが少し違うということである。すなわち、私の欲しているのはもっと「いもむし数学」(山内恭彦)である。だが、もう少しこの本の内容をわかるようになりたいと思っている。

もともと著者の志村五郎さんが「微積分学に引き続いて学んだらいい」と考えていることがこの本の中心である。この本はこのちくま学芸文庫には珍しく書きおろしである。

「使えない数学は教えなくてよく、学ばなくてもよい・・・数学は学ぶにせよ教えるにせよ。きめられた伝統的な段階をふんできっちりやらなけらばならないものではない。特に「何でも厳密に」などと考えてはいけない。これは教育上でいっているのであって、厳密でなければならない場所はもちろんある」とはしがきにあるので、これがこの本のPRの決め文句になっているようだ。

しかし、思うにあまり数学が得意でない人はこの本を買うのは控えた方がいい。数学好きな人、得意な人はもちろんこのアドバイスは当てはまらない。


逆フリ教育

2011-03-22 16:01:55 | 物理学

物理学会が発行している「大学の物理教育」最近号Vol.1, No.1(2011)に物理学会の会長の永宮さんが書いていることが興味深かった。

永宮さんはいう。研究には研究テーマを立案する第1段階、それを実験や理論で検証する第2段階、そしてそのテーマが意味があったかどうかを評価する第3段階がある。

ところが大学の教育では第2段階が主眼になっている。ところが研究では第1段階と第3段階が重要である。そしてこの二つの段階においては人々の個性とかindependencyが問われる。

日本の教育は知識という意味では優れているが、もっとものごとを考える教育を奨励すべきである。「曲がった針金をまっすぐにするには、逆方向に大きく曲げてやらねばならない」(モンテーニュ)という。

知識偏重の人間をそこから脱却して個性とか独立性を高めるには、自分で考えるいう教育を今まで以上にしなくてはならない。これを永宮さんは逆フリ教育と名づけている。

真にそうである。永宮さんのこの所見は日本の学生と外国の学生との比較からでできたものである。日本人は外国との比較によってようやく自分の姿がわかるのであろう。

もちろん、なんでも日本が悪くて外国がいいなどということはないのだが、この永宮さんの指摘になるほどと思った。

このブログは考えてみると、なんでも面白いと思われる考え方とか事実とかをできるだけとり上げている。また、よく知られたことであってもあまり突っ込んで考えたことがないようなこととかに私自身が関心を抱くからである。この姿勢を今後も続けて行きたいと思っている。


on readingから

2011-03-21 15:02:09 | 本と雑誌

朝日新聞の日曜日の読書欄に吉本隆明氏のインタビューの2回目が昨日の3月20日に載った。それで興味深かった点を書く。

吉本氏が考え続けてきたことに、切実な私事と公、どちらを選ぶべきかというのがあった。ロシア革命を指導した、レーニンが歳をとって病に伏し、妻は看病するが、スターリンはレーニンに対し、おまえの妻は党の公事をないがしろにしていると批判する。そこから二人の対決が始まる。

家族の看病や家族の死といった切実な私事と、公の職務が重なってしまったとき、どっちを選択するのが正しいのか。東洋的、スターリン的マルクス主義者であれば公を選ぶの正しいというだろうと吉本氏はいう。

だが、吉本氏はマルクスは唯物論でなんでも白黒をつけてしまえという論者とは異なり、肉親が死んだときの寂しさ、闘病のつらさといった切実なことは、公の利益のよさといったこととは別のものだということを「芸術論」で言っているという。

この見解を知ったことは驚きであった。ここに引用した以上のことをこの吉本氏は言っているが、ここでの引用はこれぐらいにしておこう。

マルクスなんて言うとその名を聞いただけで、拒絶反応を起こす人もいるかもしれいないが、聞く耳を持たない人ももう少し許容範囲を大きくしてほしい。


私の知的鍛錬法4

2011-03-19 15:23:48 | 日記・エッセイ・コラム

どうも続けて同じテーマで書くのは少し気が引けるが、要するに竹内均さんの考えとしては少しづつでもいいから継続して何かを続けていると長年経つと次第にモノになるということかと思う。

そういう生き方を私に直に教えてくれた方がいた。愛媛大学工学部に長年勤めておられた数学者の佐々木重吉先生である。彼はいつも「積み重ねで仕事をするのです」といっておられた。

彼のライフワークは微分方程式の問題を解くことであった。これはこのごろの研究者が言う意味での研究という名にはしないかもしれないが、積み重ねが重要だったらしい。たとえば、微分方程式の外国の書とかを読んで、新しい微分方程式をあるのを見れば、ルーズリーフのノートに問題だけ書き写しておく。

そして少しでも暇ができたら、それを一日一問解くことを日課にしていると言っておられた。それは勤務としての大学に出勤される前のひとときであったり、または風呂上りのひとときであったりした。または就寝前であることもあったという。

そうして解かれた微分方程式の解を書かれた膨大なノートの一部をいつだったか見せてもらったことがある。それらのノートをフルに使って「微分方程式概論」上、中、下(槙書店)を書かれた。全部の問題は佐々木先生の手塩にかけた子どものようでもあった。

また、佐々木先生ご夫妻には子どもさんがおられなかったので、学生をことのほか愛されて自分のお子さんのように感じておられた。

そういっては悪いがオールドスタイルの数学者であり、カタカナ交じりの手紙をもらったこともある。上記の本の、先生の原稿もカタカナと漢字交じりのものであったが、これはさすがに印刷会社と出版社の方の尽力ででひらかなと漢字交じりの書籍に出来上がった。

そういう積み重ねという生き方を少しは私も学んだかもしれない。


私の知的鍛錬法3

2011-03-18 12:32:38 | 本と雑誌

「私の知的鍛錬法」で知った、立花隆の「田中角栄研究」は科学書であるという評価は面白い。これはどういうことかというと立花隆は全部公表されたデータを使って田中角栄を首相からの辞職に追い込んだという。

その本に使われたデータは立花さんとかそのスタッフがどこかの倉庫に忍び込んで盗み出してきたものではないという。まさにその通りなのであろう。だから「田中角栄研究」は科学書であるということは正しい。

そう言えば、ロシアの化学者メンデレ-エフが火薬の合成に必要な材料の情報を得るためにドイツに派遣されたが、その材料の配合の割合を探り出して来いとロシア政府から依頼されたときに「いいですよ」と言って、双眼鏡とノートをもってドイツに出かけたという。そして火薬工場への引込み線に入る貨車の荷物の材料の量を調べて、結果的には火薬材料の配合率を調べてめでたく帰国したという。

ロシアの政府がドイツ国の政府に火薬の材料の配合の割合を聞いても教えてはもらえないということから、その情報を知るためにメンデーレーフを起用したことはまったく当を得ていた訳である。

このエピソードをどの本で読んだかはまったく覚えていない。少なくとも私のもっている本ではない。どこか図書館で借りた本だったと思う。

いわゆる007が活躍するような諜報活動ではなくて、科学者が役立ったというのはまったく私たちの予想を裏切るものである。これとは違うが、朝永振一郎が書いている例では科学者のローレンツがオランダでのゾイデル海の堤防の工事に関わったという話がある。

ローレンツは科学者であって、まったく土木工事には関係した技術者ではない。ところがオランダ政府はその堤防工事の責任者に選んだという。8年の歳月を要したが、彼の研究は実を結び、その後の高潮のときにはローレンツの予想通りのところで潮位は来てぴたっと止まったという。

堤防の他の箇所は破損したり、決壊したりしたところがあったらしいが、ローレンツの設計した箇所は何事もなかったという。そしてその手法は地道な科学研究の処方であったことは朝永さんのエッセイに詳しい。

昨今の原発事故や地震とそれにより引き起こされた津波の被害を思うときにこのような教訓は何かの役に立つのではないかと思う。

確かに地震は難しいし、それによる津波も難しい。また、原子力も難しいかもしれない。だが、まだ考え方が悪いところがあるのではないかと考えてみる必要もあろうか。


福島原発事故

2011-03-17 13:39:13 | 社会・経済

福島原発事故は日本では最高の技術をもっていると思われていた、東京電力の原発が最低の安全保障をしていなかったことが明らかになった。確かに原発の停止に対してECCSが働くようになっていたが、これが電源の燃料が津波でなくなったとかで作動しなかったという。

ECCS用の電源を原発構内で用意することは最低限として必要だが、それだけで十分なはずがない。その他にその構内に事故が起こったときを想定して、直ちに外部からひき込める、独立な電源を用意していなければならない。そんなことは当然ではないか。その独立に使える電源の用意は一つで不安なら、二つ以上あればもっといい。

安全装置が何重にも装備されていてもそれが同時に機能しないから、事故が起こるのであり、その安全装置は同時に機能しないことが往々にしてあるということは武谷三男が常に言っていたことである。

なんでもできるだけ別系統というか、無関係というか、独立な装置なり、設備なり、安全装置を用意しておかなければならない。企業にはそのような対策を講ずることが会社の経済的な負担になるとしても、今回のような事故が起こり、取り返しがつかなくなるよりははるかにコストが安く上がる。

想像だが、今回の事故で福島第一原発は壊滅であろう。そうすると新たにここで原発を立ち上げることは、断言はできないが、不可能に近いのではあるまいか。不可能ではなくても再建には長期間がかかるであろう。だから、そういう事故が起こるよりはそれを独立に防ぐ装置なり、電源の手当てをしておいた方が経済的であったはずである。

ところが、最悪の事故を多分日本でも一番強力で技術的にも最高と見られていた東京電力が引き起こした。そうすると他の電力会社の状態は想像してもあまり安心できる状態にはないことが推測される。

昨夜のテレビで愛媛県知事の中村氏が伊方の原発を訪ねたというニュースが出ていたが、これは県民を安心させるためのパーフォマンスではあっても、上に挙げたような別系統の炉冷却の電源の確保やそういった設備の設置を確認したことではないと思うので、もっと四国電力にそういった対応を迫るべきであろう。

というようなことを友人がメールをしてきた。彼は原子炉から発生する中性子を使って磁性体を研究する研究者であって、必ずしも原発反対論者ではない。その彼が不安を感じて私に連絡してきたということに、ことの本質が集約されているようである。

伊方原発は瀬戸内海に面しているので、福島原発のような大きな津波は受けないだろうと推測されてはいるが、伊方原発の沖数キロメートルのところに断層があることは知られており、地質の研究者によれば、この断層でマグニチュード8規模の地震が起きても不思議ではないとも言う。

ここでは一般の方の不安を煽るのが、目的ではない。そういう想定外のことを想定して、地震とかその他の災害に備えるべきだということである。そしてそれらの備えや設備が働くような災害とか機会がなければもっけの幸いであると考えるべきであろう。


「私の知的鍛錬法」2

2011-03-16 11:24:20 | 本と雑誌

昨日の続きというわけではないが、竹内均さんの「私の知的鍛錬法」から私自身の身にこたえたことを引用しておく。

りっぱな仕事をしているのに、だれもそれを評価してくれず、またその結果をしてくれる出版社もないといってぼやいている人をよく見かける。こういう人には、「人生はそんなに甘いものではない」とだけ言っておきたい。自分の仕事をりっぱだと思うのが自分だけであるというような思い上がりをしていないかをよく反省してみる必要がある。彼らの仕事が本当にりっぱな場合には、世間はそれを放っておきはしないからである。(p.44)

人とのつきあいにおいては、約束したことを守るという意味の正直が第一である。ある約束をするかしないかは、その人の自由に属する。いやな約束はしないですませられるからである。しかし、いったん約束をした以上は、どんなことがあってもその約束を守らなければならない。私はこれを、人とつきあう場合の第一方針としている。(p.204)

この二つはどうもわが身に照らしてあてはまるのかとも思う。これから自分の身をどう処していけばいいのかまだよくはわからない。