物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

叔父の来訪

2009-05-30 12:50:43 | 日記・エッセイ・コラム

昨日は急に叔父が来訪したためにブログが書けなかった。大して長時間付き合ったわけではないが、それでも一日の予定が狂ってしまった。昼食に近所のうどんやでうどんを久しぶりに一緒に食べた。

1925年生まれの叔父で義父と13歳も違うという。この年齢の人は誰でもというわけでもないかもしれないが、自分のことだけ言ってこちらのことはほとんど聞かず一方的な人が多いが、この叔父もその例外ではない。妻などはそういうタイプの人の何人かとつきあっているが、いつもこぼしている。それも太平洋戦争が終わった年1945年頃に20歳前後だった人にどうも性格的におかしい人が多い。

自分ひとりが付き合っている分にはまだそれほど被害はないが、他人も一緒に車などに乗って出かけるときには他の人をびっくりとさせてしまう。そういう人はだんだん普通の人がつきあってくれないから、それほどあからさまには嫌がらない私たちのところに近づいて来るという傾向がある。

人に付き合ってもらわなくともそれほど寂しいとは思わない私などには理解が出来難いが、一般に彼らは常に寂しがっている。だが、それも自分のなせる業なのだ。ところがそのことを自分では全く分かっていない。いい年をしてと思うが、これは若いときからそうなのであろう。


私立中学校入試問題

2009-05-28 11:34:30 | 受験・学校

姪の子が小学校5年だが、私立中学校の試験の準備で塾に通っている。先日東京に行ったときに姪の家を訪問したら、その塾の数学か理科の問題を姪の子がやっていた。それを見ていたのだが、なかなか一あたり量(内包量)が出てくるので難しい。それでもなんとか問題を解くことはできていたようだが、問題をFaXで送ってもらい、今朝解いて送ってやった。

さあ、役に立つかどうか。面積図(かけわり図)とテープ図を用いて説明をしておいたが、分かるかどうか。わかれば、図は描かなくてもいいのだが、説明だから図を繰り返して描いておいた。

二男がやはり中学入試を受ける頃に入試問題を解いて以来の中学入試問題であった。もちろん一あたり量がわかれば、問題はそれほど難しくはないだろうと思う。だが、小学生にはなかなか一あたり量は難しい。


ブログに書く内容を忘れた

2009-05-27 13:03:06 | 日記・エッセイ・コラム

今朝起きたときに今日のブログで書くことを考えて決めていたのにいざ書こうとすれとそれが何だったかまったく忘れて思い出せない。

近所に住むご婦人の認知症気味なのが私のうちでも話題になっていたが、私も認知症気味である。そういういえば、このご婦人の名前を名前をしばらく思い出せないことがあった。

一生懸命思い出そうとしたのだが、2時間ほど思い出せなかった。妻に聞けばすぐ言ってくれるのだが、これは我慢してじっと思い出そうとして2時間ほどしてやった思い出したときにはうれしかった。

こういう風に老化は進んでくるのだろう。認知症といえば、いつだったか前にも書いたかしれないが、業績のある有名な物理学者が老年になって認知症になっていたと聞いた。

この方は日本を代表する物理学者の一人であるが、その人と接触したことのある気鋭の物理学者から聞いた。イニシャルを書くとどなたのことかすぐにわかるのでここには書けない。

これも日本を代表する数学者のことであるが、この方も老年に認知症になったと聞いている。物理にも詳しい方だそうで、この方の主宰するセミナーは多くの方が参加するすばらしいものであったらしい。

門下生のある方が研究生活から老年の日常生活へのソフトランディングがうまくいかなかったのだという風に言われていた。

この数学者の門下生ではないが、学位論文の取得のときにいいアドバイスをもらった、ある数学者はこの先生の門下生がもっと頻繁に先生を訪問してあげるべきだったのではないかとの感想をもっていた。しかし、これはそうしていてもこの優れた数学者の認知症を防止できたかどうかは分からないから、単なる感想にしかすぎないだろう。

いずれにしても自分の人生を常に活発に生きることは、これらの方々のような優れた学者でも難しいことを示している。

しかし、人のことではなく自分のこととして考えるとき、認知症になるかもしれないなどとあまり神経質にはなりたくはない。


完全とは達成できないことか?

2009-05-26 16:40:56 | 学問

武谷三男の著作リストの第2版をつくって素粒子論研究に発表したときにはもう完全に彼が一部でも書いている本はもうないだろうとうぬぼれていたが、そんなことはないらしいということがわかった。Early Histroy of Cosmic Ray Studiesという本にTheoretical Study of Cosmic Rays in Japanという武谷の寄稿が載っているらしい。というようなことがこの数日のインターネットの検索でわかった。

すべての本を入手することはできないのだが、できるだけ彼が一部でも書いている本は手に入れるようにしている。これはしかし、お金がかかることなので彼の寄稿のある雑誌にはまだ適用はしていない。もし適用すれば費用がどれくらいかかるかわからないからである。

先日も失敗をした。インターネットで調べたら、どうも2000年のフランスかどこかであったdark matter の国際シンポジウムで武谷と長崎の発表があったらしいという情報を得て、そのproceedingsをさる書店から3600円くらいで購入したら、そういう記事は全くない。送料も入れると4000円もかかったのに。妻に叱られそうなので、黙っていたがそわそわした様子からおよその様子は察していたにちがいない。

どうしてそういう間違いが起こったのかというとどうもこの2001年に武谷と長崎の「量子力学の形成と論理」という3冊の本が出たが、その同じ出版社からこのproceedingsが出ていて、そのインターネットの広告が隣り合っていたためにそういう間違いが起こったらしい。いやおかしいとはおもっていたのだが、早とちりであった。

こんなことなら、著者の一人と思われている長崎さんにまずは手紙で連絡を取って見るんだったと、後で悔やんだ。どうもそういうこともある今日この頃である。


7才からの微積分

2009-05-25 11:36:20 | 数学

「7才からの微積分」という題の本が講談社のブルーバックスから出ている。

これはいまをときめく数学者の新井紀子さんが訳されたものだが、私の知人の滝本さんが著者のDon Cohenとメールでやり取りをして翻訳権をとったものであった。出版してくれるところを探して講談社に行き着いたと思う。

まだ現役で大学に勤めていたときに滝本さんが突然電話してこられ、その訳本に対応したWork Sheetという英語の本をもらった。数冊彼がDon Cohenから送ってもらったものの一冊であった。

滝本さんはこのWork Sheetの方を高く評価していてこちらを訳して出版したかったらしいが、こちらを出版しようという出版社は出てこなかった。

なぜいまこれを問題にしているかというと、sin xの微分をM大学の講義での演習問題に出てきたが、それをどう教えるかということでここ2,3日頭を悩ましているからである。いまのアイディアはsin xの接線の傾きがcos xとなるということを一々確かめるということで行こうと思っている。

時間が十分あるならば、sin xの導関数を導くのはいいのだが、これは質問で出たもので、説明をするのに時間を取るのははばかられる。

なにせ中学校の数学以上のことを学生に期待できないのだから、制約を受ける。もっともそういう低レベルであることに不満な学生もいるのでまたこれが悩ましい。

でも、Don Cohenではないが、7歳から微積分を学ぶことができるというのに、大学生が微積分を嫌うというのは逃げでしかないとは思うが。


都市の論理と社会主義

2009-05-24 16:07:23 | 国際・政治

世の中ではソビエト型社会主義の崩壊と共に社会主義は滅んだと思われていて、資本主義の勝利ということが90年代にいわれた。

ところがそれが昨年のサブプライムローンに端を発する金融危機以降、資本主義の崩壊の態をなしてきている。さすがに資本主義の崩壊だとあからさまにいう人はいないが、80年代末がソ連型社会主義の崩壊なら、現在の状況は「ごうつくばり型」資本主義の崩壊であろう。

ものごとを自重してやっていれば、「資本主義」の崩壊もなかったであろうが、資本主義はいきつくところまで利潤を貪ろうとするところがその本性としてある。そこのところを人間の倫理で抑えないととんでもないことになる。

とはいうもののそういう道徳みたいなことをいっているとこれは科学にはなれないだろうから、どこかでそういう人間の本性まで織り込んで学問体系を立てるということにするのであろう。

それとは違った考え方かもしれないが、国家ではなくてその国家を構成する都市に重点をおいて社会を考えるというのが羽仁五郎の「都市の論理」である。

日本とかフランスとかは中央集権国家であって、どうも都市国家ではない。だが、都市を中心にした社会を考えるというのはやはり試みてみたい考えである。

裁判にしても経済にしても教育にしてもあまりに国を中心とした考え方が強すぎる。もちろん、外交では国としてのまとまりがいるだろうが、教育その他もろもろのことは各都市を中心にした方が、よさそうである。

ということになると法人化された国立大学等も各都市立または都市連合立の大学として再出発をするという話になる。財政的には苦しくなるが、このときの財政は国に国民が納める税金は基本は税金全体のごく一部になる。

いまの政治形態とは反対に都市と国との関係が都市が主で税金は都市に納めてそのごく一部を国に上納するという風にひっくり返る。いまは地方自治とかいいながら、結局は国が所得税をとり、そのごく一部を地方自治体にまわしている。

社会主義にする必要はなくて、そういう都市を中心とした政治にする。そういうことを考えてくれる経済学者や政治家はいないものだろうか。

どうも日本では国の施策に待つといった考えが強くていけない。大学の先生にもそういった決まりきった考え方しかできない人がほんとであり、失望せざるを得ない。


再Lagrangeの恒等式

2009-05-23 17:42:58 | 数学

大学の図書館に行って「数学セミナー」の2006年のLagrangeの恒等式の連載をようやくコピーしてきた。

昨夜、少し読んだが、なかなか理解ができない。それに証明は私のした証明とは違っていた。これはいつかまた愛数協の「研究と実践」に紹介しなければなるまい。

むしろLagrangeの恒等式の意味を説明しているようなのだが、どうもよくわからない。もう少しゆっくりと読んで見なくてはならないだろう。

私も数学エッセイをときどき書くのだが、他人には同じような感じを与えているのだろうか。このシリーズの連載ではほとんどが問いになっていたり、練習問題になっている。この答えを書くと記事が長くなるので、こういう措置をとっているのだろう。

また数学セミナーを読むような人は数学の得意な人であろうから、計算だって達者であろう。だが、私はいまだ買って数学セミナーを購読していたことがないし、これからもとらないだろう。

(2013.6.10付記) この解説は愛数協の「研究と実践」105号(2010.7)12-17に発表した。数学セミナーで桑野耕一さんが述べた証明を丁寧にわかりやすくしただけであるから、オリジナリティはない。


ITホワイトボックス

2009-05-22 11:41:31 | テレビ番組

NHKのITホワイトボックスという番組を昨日居眠りしながら見ていたら、トレースバックというのがブログの有力な道具立てであるといっていた。そうかもしれないが、なにかあまり他人にご推奨できかねるものばかりトレースバックされるので、あまりにもひどいものは削除をしている。

このブログのようにマイナーなものは強力なところとは違うのだが、それであまりご利益を得たことはないような気がする。むしろ迷惑であって「ほっておいてくれ」といいたいが、どうもなんにでもトレースバックしてくるという良からぬやからの方が多い。もっともそうはいってもマイナーなブログだからそれほど被害はひどくはないのだろう。

いつだったかほとんど毎日ブログを更新しているせいか、どこかに移籍をしないかと誘われたことがあったが、それは無視した。また、移籍に賛成をしないというコメントをくれた方もあった。いずれにしてもブログの能力をもっとフルに使う必要があるのかもしれないが、写真もでないブログでは誰も面白くないだろう。


広重徹の武谷批判

2009-05-21 12:35:20 | 学問

広重徹の「科学と歴史」(みすず書房)の中の「科学史の方法」のところを読んでいる。

この中で広重徹は武谷三段階論を科学の研究の歴史に基づいたものではなく自然の論理としても科学の歴史としても間違っているといっている。

間違っているという言い方はちょっと言い過ぎかもしれないが、武谷三段階論はどうも歴史に即したものではなく、また三つの段階の間の移行の契機がはっきりしないというようなことらしい。

これはまだ印象の段階なのだが、もっときちんと広重の言っていることをつかむようにしなければならないだろう。

昔、広重の武谷批判を読んだときにそれなりに納得した気になったものだったが、だが広重は新しいアイディアを出してはいないと思った。

広重の言うことは個々には間違いがないのかもしれないが、夢とかロマンがないという不満である。少なくとも人をひきつける要素に欠けている。科学史の研究は夢とかロマンとかドグマを与えるものではないといわれればその通りかもしれないが。

その後、武谷の広重に対する反批判も読んだ。一部は「もっとも」と思うところもあったが、全部が「もっとも」と言えないのではないかと思った。この二人の議論から何を得るのか。これは自分の立場をはっきりさせることになるのだろうか。

そういえば、大学院の頃、O先生は広重が個別科学としての物理学の研究をしていないために「研究のあや」がわからないというような批判をしていたように思う。

科学史をやっていない普通の物理学者には伏見さんにしても南部さんにしても武谷三段階論を方法論というか世界観としてはそれなりに評価していると思う。それは考え方であって、かならずしも科学史の成果とは捉えていないと思う。

このごろ、科学史の研究者として一般に評価されている、山本義隆氏の本などには武谷の名前などは全く出てこない。これは科学史研究としては広重風の意味では武谷三段階論はあまり評価できるものではないということを示しているのだろうか。

もっとも山本義隆氏が科学史研究者の中で評価されているのかどうかはわからない。すくなくとも山本氏は広重とは違って武谷三段階論のような考えに囚われなかったということだろう。


blind test

2009-05-20 11:40:51 | 健康・病気

昨日double checkという言葉について書いた。これはひょっとすれば和製英語かもしれないが、似たような言葉でblind testというのもある。よくは知らないので間違えているかもしれないが、新薬を開発してそれが本当に効用があるのかどうかを統計的に調べるときに使う方法である。

同じ効用があると称する薬を二つに分けた患者のグループに服用させて本当に効くかどうかを対照して調べる。というのは薬が効くというだけでそれが心理的に作用して症状が良くなる人が必ず居るからである。そうやって調べておかないと効くと証して売られた薬が実際には効用がないということがある得るのである。

科学とかその検証ということはなかなか面倒であるが、そういうチェックを経ないと科学とか工学とか薬学とかとしては失格である。そういう過程を何回も経て、効用や科学的事実が確かめられるのである。


インフルエンザの流行

2009-05-19 17:05:47 | 健康・病気

新型のインフルエンザが関西地方で流行りだしている。ということで知人からもらったメールにもできるだけ家から外に出ないようにしているとあった。

私なども普通のときは家からあまり出ないことが多い。この頃は家から一歩も外に出なくともインターネットで情報を得て仕事がすむ場合もあるが、それでも最終的にはインターネットでの情報をどこかで本当に正しいのかチェックしないといけない。こういうことをdouble check(またはcross check)するというのだが、そういうチェックを何でもいつでもしないといけないと思う。

これは昔研究を始めた頃に学んだことである。そのチェックもできるだけ独立なというか利害が離れているというか、無関係な情報源に照らしてチェックしなければいけない。

これは科学的な研究をする人の心がけなければいけない一つの重要な点であるが、その心がけは科学研究に限らない。マスコミのスキャンダルなどはこういうdouble checkを怠ったときに起こる。

だからdouble checkができないときにはなんでもその信用度は割り引いて考えなければならない。人を完全に信用しないのは不幸な人間のすることのようだが、仕方がないこともある。

私自身に関して言えば、計算物理学者の習性として、一つの計算法で出た結果をまた別の計算法で計算するということをする習慣がついた。もっともそういう計算をどうやってしたらいいのかわからないときもあるが、できるだけそうしたいといつでも考えている。

これは物理学者の朝永振一郎さんのエッセイを読んで、そのようにするようにしたのだと思うが、朝永さんは、この方法をHeisenbergのアドバイスだと言っている。


古希の祝い

2009-05-18 11:01:15 | 日記・エッセイ・コラム

先週末久しぶりに上京して子どもたちに会った。そのときにまだ10日ほど私の誕生日前なのだが、古希のお祝いをしてくれた。

その祝いにもらったプレゼントはアマゾンの図書購入券と本のカバーだった。なかなか立派なカバーであるし、図書券もかなり高額であったので、子どもたちに申し訳なく思った。

食事をみんなでしたが、二男がいろいろ自分の仕事のことを話してくれて、様子がわかったのと彼の成長というか活躍ぶりがわかってよかった。

会社の求人の募集に応じてくれた学生や中途採用者の面接にも一部だがたずさわっていることを知り、わが子ながらの「しっかりぶり」を知り、心強かった。「これからも頑張ってくれよ」と応援を送りたい。

長男は相変わらずの忙しさである。朝が早かったせいか途中で居眠りをしていた。甥もそのお祝いに来てくれて、久しぶりの面会であった。

二男の嫁がいつものやさしさで今度のお祝いのプレゼントを企画してくれたと聞き、感謝の気持ちが深い。仲良く幸せであってほしい。


訳書の打ち上げ会

2009-05-14 12:35:15 | 日記・エッセイ・コラム

Goldsteinの「古典力学」の訳書の下巻が3月に出版されたのを記念して昨夜訳者の3人が松山市内の某レストランで集まり、ささやかながら打ち上げ会を行った。訳者の一人が健康を害していたり、その後時間がなかなか取れなかったのがこれほど打ち上げ会が遅れた理由である。

まあ、「ともかくも訳書が完成するのを生きて見ることができてよかった」というのが私の偽らざる感想である。それくらいいつ終わるとも思えない作業であった。

もっとも昨年の4月のEさんの退職後は仕事は順調に進んで昨年の10月末には原稿をすべて出版社に送ってあった。後は校正を見ることが残ったが、この校正の段階でも原稿を幾分修正したりして再校で著者校正は終了した。

これでなんとか仕事は終わったのだが、第2版の訳の責任は一番年長の瀬川先生がとってくれていたので、校正の段階で私たちのいくつかの修正要求が通らなかった代わりに責任という点では気楽なものであった。

今回は訳者の3人が平等に責任を持つという方針であったので、各人が責任を免れるわけにはいかない。それでというわけではないだろうが、再校にいたるまで意見が出てきたり、文章の訂正が多かった。それだけいいものができているとは思うが、その判定は読者に委ねるしかない。


日本と外国との乖離

2009-05-13 14:10:44 | 学問

いや日本と外国との乖離乖離とおおげさに言うほどのことではないのだろうか。

武谷三男博士の業績を調べたりしているうちに外国の物理学史の研究者が武谷とか坂田とかはたまた湯川とかのことを研究して論文や書籍にしていることを知った。

日本ではこれらは方はもう亡くなってからかなり時間が経つので、忘れ去られようとしている。

そうはいっても湯川はノーベル賞を日本人としてはじめてとったスパースターだから、議論する人はいるし、坂田も昨年末にノーベル賞をもらった小林、益川の先生にあたるから、思い出す人も多い。

ところが武谷になると彼が亡くなってからまだ10年目だというのに日本では思い出す人はほとんどいなくなっている。

だが、L. M. BrownとかM. F. Lowとかドイツの科学史家である、Rerchenbergとかは湯川や坂田、武谷のことを研究して論文にしたり、本として出版したりしている。

これは日本人の悪い癖ではないだろうか。外国で評価されたり、話題になったりしないととりあげない。

私が武谷の論文リストをつくったり、著作リストをつくったりしてもそれを評価してくれる人はいないとは言わないが、少ない。

一方、外国の研究者の科学史の論文だが、大きなところでは間違いはないのかも知らないが、細かなところではやはり間違いがあったりする。そういうところを埋める研究が必要な気がする。こんなことをここ数日感じている。


講義は聞いてすぐわかるか

2009-05-12 13:00:37 | 物理学

物理学とか数学とかの大学の講義を聞いてすぐわかるかといえばすぐにわかるとは言えないだろう。

だが、毎授業時間の最後にアンケートをとるとわかならないという感想を書く人が多い。多分自分が一度考えたことがあれば、わかるだろうがそうでなければ授業を聞いてすぐにわかることはないにちがいない。

それでも言葉どおりにとって真剣に「これでもかこれでもか」と説明を繰り返している。だが、本当のところは私の独り相撲であろう。

だから先回の授業のときに自分が「本当に分かろうと思わなければわかるようにはならない」と言っておいた。この言葉をどれほど真剣に取ってくれた人がいるだろうか。

京都大学の数学の先生だった森毅さんはほとんどの人が「授業をわからないだろう」とどこかでエッセイに書いていた。

それに比べれば私の前回のアンケートに答える時間ではもっと身近に感じてもらっているだろうとは思うが、同じ質問が出るという状況は今年も変わっていない。

先週か先々週に質問に答えた同じ質問が今週のアンケートに書かれていた。例年5回くらい同じ質問が出る。それに4回までは答えることにしているが、5回目には答えない。

質問が出ることはいいことだが、誰か他人が質問をしたときにはよく聞いていなかったという事態が5回も続くという状況はどうかしている。授業自体の存在意義が疑われる。

これはもちろん授業をしている私の問題もあるだろうが、同じ質問が5回も出るということはいくら学生にひいきに考えても教える方の問題だとは考え難い。

それも難しい概念なら何回質問が出ても仕方がないが、そうではなくて比例するという記号だとか恒等的に等しいという記号を「式の定義の意味に使う」という用法について何回も繰り返して同じ質問が出るということは単なる授業の聞き方がだらだらであるということの証明であろう。