物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

『無限解析序説』(共立出版)

2024-05-30 15:43:37 | 数学
先ほど書店で『無限解析序説』の原本を見てきた。私が以前に購入して持っている『オイラーの無限解析』と『オイラーの解析幾何』(海鳴社)とどういう関係にあるのか知りたかったからである。

あとがきを読んで、上の二つの本の合本として共立出版から出版されたということを知った。たぶんいくつかのミスプリントかが修正されているのだろうとは思うが、 なかなか年金暮らしの身では購入できる定価ではない。

海鳴社の社長、辻信行さんとは面識があったが、彼が亡くなってすでに数年たつので遺族の方々が共立出版での再版を許可されたのであろう。

アマゾンコムの本の紹介では「このオイラーの古典的名著の邦訳を、訳文や脚註を再点検した上で、新しい解説を加えて発行するものである。また、組版を新たに組み直し、合冊とした」

とあった。

しかし、本の装丁を見た印象ではとても元の2冊とよく似ていた。昔の本は2冊合わせて15,000円だったので、合冊して定価が16,500円なら比較的現在としては、安価に定価が抑えられていて、良心的であると思う。


『群と物理』

2024-05-30 14:46:57 | 物理学
ちょっと用があって、佐藤光『群と物理』(丸善)を走り読みしている。この本を購入したのはずいぶん以前である。

ちらっと見たことはあったろうが、部分的にでも走り読みしたことがなかった。なかなか要点を得た、いい本であるようだ。SU(2)の2価表現のことを知りたいと思って読みはじめたのだが、そこだけ読んでもわからないので、第3章の「リー群とリー代数」を読み始めたが、なかなか要を得た記述である。

もう数十年も以前にルートだとかウエイト(リー代数とその表現のこと)だとかについて学ぼうとしたことがあったが、十分に身につかないうちに沙汰やみになってしまったことがあった。

それらがいまようやく、すこしづづ関連付けられるかもしれない。



熱力学第一法則とマイヤー

2024-05-29 13:46:45 | 物理学
ここでいうマイヤーは統計力学の古い本で、マイヤー=マイヤーという通称で知られているマリヤ・ゲッペルト=マイヤーのことではなくて、熱力学第一法則の提唱者としてのマイヤーのことである。

このマイヤーを「ドイツ語圏とその文化」第2号で紹介したのだが、これはちょっとした数式が含まれていた。

それで3回目としてここにコピーをしようとしたが、うまくいきそうにないので、コピーはやめることにした。私自身は数式を少し含んでいるエッセイのほうが私が書いたらしくていいと思っているのだが。

力学で知られている力学的エネルギー保存の法則がある。もちろんこのときに熱エネルギーを含めたエネルギー保存則を考えられてはいない。その力学的エネルギーが熱エネルギーを含めて考えられるのではないかと考えた、始めの人が船医だったマイヤーだった。

マイヤーはあまり数学とか物理の知識が十分でなかったために、その論文は論旨がはっきりせず掲載拒否にあったという。しかし、いま言った熱エネルギーを含めたエネルギー保存するという考えは明白だったらしい。力学的仕事と熱エネルギーが互いに変換するという考えはその当時もすでにあったそうだ。

一時は精神を病んで精神病院にまで入院したとまで言われる。しかし、病気が癒えて退院して、その後、彼の論文のプライオリティは認められた。いくつかの賞を受賞したりするが、彼の研究生命はもう終わっていたという。

昨日紹介したレントゲンは研究では成功したが、晩年は第1次世界大戦のインフレで破産したというから、どの科学者も時代の波にもまれて苦労している。

レントゲンはノーベル賞の賞金はヴルツブルグ大学にすべて寄贈したそうだし、X線でパテント(特許)を取りませんかと、どこかの会社から勧められたが、取る気はないと経済的に恬淡としたところは、私たちには容易に見倣えないところだ。 



85歳になった

2024-05-28 12:10:43 | 本と雑誌
昨日の5月27日は85回目の誕生日だった。特に変わったこともない月曜日である。

母からは夜遅くに生まれたと聞いていたから、10時ころだったのだろうか。祖母が私が生まれるかと思って家に来て待機していたのだが、8時頃だったかに「今日はもう生まれないね」と言って帰った後に急に生まれたとか聞いた。

昔は、5月27日は海軍記念日だったということで海軍記念日が私の生まれた日である。大学での上司だった故荒木次郎先生は若いときに海軍工廠にお勤めだったから、私が赴任してすぐに「君は海軍記念日の誕生だったよね」と親しげに言われたことを思い出す。

50歳ころにあと何年生きられるかわからないから、一年一年を大事に生きたいと思ったことを覚えているが、それほど自分の生きてきた一年一年を大切に生きて来たとも思えない。

ただ、そうは言っても無限に生きることはできないのだから、一年一年を大切に生きていきたいと思ってはいるのだが。

午前中は、このブログに掲載した科学者の短い伝記を書いた文章をワードの文書に記録する作業を行った。

これは「ドイツ語圏とその文化」に書いた3人のドイツ語圏の科学者の記録をとどめておきたいとの気持ちもある。4人目はまだ完成をしていなかった。

4人目は女性数学者のエミー・ネタ―であるが、何とかしてこの記事も完成させておきたい。物理学で有名なネタ―の定理を見つけた方である。

X線の発見とレントゲン

2024-05-28 10:30:01 | 物理学
これは「ドイツ語圏とその文化」という自作の雑誌に掲載したものである。 

          X線の発見とレントゲン
         -ドイツ語圏世界の科学者3-


1.はじめに
レントゲンによるX線の発見についての記述をちょっと場違いかもしれないが,ラジウムの放射能の研究で有名なマリー・キュリー夫人の伝記『キュリー夫人の素顔(文献:リード)からその一節を引用するのが一番いいだろう.

(引用はじめ)
原子力時代の始まりを1895年11月8日からとしても,決しておかしくはないだろう.その日バイエルンの研究室で,一つの現象が観測され,それがその後の物理学者たちのものの見方を変えてしまった.

それを観測したのは,ウィルヘルム・レントゲン(1845-1923)であった.彼はナシの形をした陰極線管を戸棚から取り出し,その一端を電気回路に接続した.それから,その陰極線管のまわりを黒いボール紙で覆い,部屋を完全に暗くして,陰極線管に高圧の電流を通した.(中略)

陰極線管から1メートルほどまで来たとき,彼はかすかな光を見た.彼はマッチをすって,その光がどこから出ているのか見ようとした.それは白金シアン化バリウムを塗った小さなカードであった.陰極線管からの光線は,厚いボール紙に完全にさえぎられているのに,そのカードは光を放っていた.彼は陰極線管のスイッチを切った.するとバリウムを塗ったカードは光らなくなった.スイッチを入れると,カードは再び光はじめた.こうして,レントゲンはエックス線を発見したのであった。(引用者が訳書から漢字と固有名詞等を少し変更した)(引用終わり)

レントゲンはこの正体のわからない放射線の性質を調べて同じ年の12月28日に論文として発表した.このとき放射線の基本的性質はほとんど解明されていたという.これは大発見であった.手のX線写真をとればその手の骨の様子がわかることも示されたという.医学的な応用が直ちに誰の目にも明らかだった.

『キュリー夫人の素顔』によれば,X線の研究は一年経つか経たないうちに48冊の書籍と1,000編以上の論文が出版されたという.それに対比してその当時の流行の研究テーマではない,放射性元素の研究をひそかにはじめたマリー・キュリーの姿が印象的である.

しかし,以下ではレントゲンとX線に焦点をあてたいが,その前に放射線にはどのようなものがあるのかをまとめておこう.

2.放射線の種類
広辞苑によれば,放射線(radiation)とは

狭義には放射性元素の崩壊に伴って放出される粒子線または電磁波のことをいい,アルファ線・ベータ線・ガンマ線のことをいうが,それらと同じ程度のエネルギーをもつ粒子線・宇宙線を含める.
ちなみにいずれも原子核から放出されるが,アルファ線はヘリウム原子核,ベータ線は電子または陽電子,ガンマ線は非常に波長の短い電磁波である.

広義には種々の粒子線や電磁波の総称である.

とある.

狭義の意味では天然放射性元素でも人工の放射性元素でもすべて放射性元素から放射されるものという限定があるが,ここではもっと広い意味にとって放射線を考えてみよう.

電子線(陰極線),陽子線,中性子線,X線とか宇宙線も含めて考えることにしよう.そのときに放射線は質量をもった粒子放射線と質量をもたない電磁放射線とに大別できる.

1.粒子放射線
  アルファ線,ベータ線,電子線,陽子線,中性子線,重粒子線

2.電磁放射線
  ガンマ線,X線

がその主なものである.

電磁放射線とは普通はいわないが,電磁波の仲間には光線や赤外線,紫外線等も含まれている.光線は人間の目に見えるので,可視光線とわざわざ可視という形容詞をつけて呼ぶのが普通である.一方,紫外線や赤外線は人間の目で見ることはできないが,赤外線は体にあたると暖かく感じるし,紫外線を浴びると人の皮膚が後で黒くなったり,または赤くなったりして日焼けをする,

また,このころは携帯電話をもたない人はいないくらいだが,これは電波といわれる電磁波である.ラジオやテレビの電波も電磁波の一種である.これ等の電波の波長は0.1mmから30kmである.

X線は可視光線と同じ電磁波の1種であり,その波長は0.01nmから10nmである(注:1nm=10^{-9}mである).参考までに可視光線の波長は380nmから800nmくらいであり,X線の波長は可視光線の波長と比べると1/40から1/80,000も小さい.

電磁波の波長$\lambda$と周波数$\nu$と速度$c$の間には
\begin{equation}
c=\lambda \nu
\end{equation}
の関係がある.この関係は難しそうだが,周波数(振動数)とは1秒間に何回1波長の振動を繰り返すかを示す量であるから,周波数に波長をかければ,それが電磁波の速さとなる.ここでcは真空中の光の速さである.

これは電磁波である以上は波長の大小にかかわらずこの関係は変わらない.もちろん電磁波の伝わる空間が真空中でなければ,その速さは真空中での光の速さより小さくなる.

波長0.01nmのX線の周波数3$\times 10^{19}$Hzであり,そのエネルギーはおよそ0.1keV,また波長10nmのX線の周波数は3$\times 10^{16}$Hzであり,そのエネルギーはおよそ100keVである\footnote{eVはエネルギーの単位の一つで,$1 \mathrm{eV}=1.9\times 10^{-19}J$である.これは1Vの電圧で電子を加速したときに電子がもつエネルギーである.

3.X線の性質
X線という名称はレントゲンがX線を発見したときにはこれがどういうものかわからなかったために代数で未知数を表すためによく使われる文字xにちなんでつけられたものである.

しかし,簡単にわかるようなX線の基本的性質はレントゲン自身によってX線の発見から数週間内に調べられた.それらの性質をここに挙げておこう~\cite{レートン}.

1.X線は高エネルギー(数10keV)の陰極線(すなわち電子)を放電管の陽極にあたるとき生じる.
2.重い金属でできている陽極は軽い金属でできている陽極よりも強いX線を発生する.
3. X線は電荷をもたない.X線は磁場によって曲げられないから.
4.X線は帯電した物質を放電させる.
5.軽い元素からできている物質は重い元素からできている物質よりもX線を強く透過する.
6.写真乾版(フィルム)はX線に感光する.
7.X線は直進し,普通にはそれを反射させたり,屈折させたりできない.
8.シアン化白金バリウム,カルシウム化合物,ウラニウムガス,岩塩などがX線によって蛍光を出す.

その後の研究で以下の性質も判明した~\cite{レートン}.

1.X線は波動性をもつ放射線である.電磁波の1種である.
2.\X線をある条件下で偏光させることができる(注:(直線)偏光とは電磁波の電場の振動面がある平面に固定されることを意味する.振動面が回転する場合には円偏光または楕円偏光という.偏光面は光の進行方向に直角である.これは光(電磁波)が横波であることを示している.自然な光はいろいろな振動面をもつ光の重ね合わせである.光を偏光板を通すと特定の振動面をもつ光だけが得られる.これを偏光という)
3.X線は結晶で回折させることができる.これによって結晶の空間構造を知ることができるようになった.
4.X線には連続X線の他に陽極の材料に特有のスペクトラルをもつ特性X線がある.
5.特性X線の波数は陽極物質の原子量とともに増大する.

4.X線の発見の意義

物理学上の意義で言えば,特性X線の方が連続X線よりもはるかに意義が大きいが,物理学上での意義を別にすれば,医学的な診断の技術としてのX線の意義がとても大きい.

骨折したときに骨がどういう風に骨折しているのかとかいう診断を与えてくれる.これは私の経験したことだが,20数歳のときに奥歯の親知らずが生えて来て,それも成長する方向が横にある歯を押すようになったために熱を出した.

歯科医に行ったら,歯のレントゲン写真をとられて,それを見て親知らずを歯茎を切開して抜いてもらったことがある.その後も歯科でX線写真を撮ったことがあるのは1度や2度ではない.

もっとも一番よく知られているのは肺結核の診断としてのX線写真の撮影であろう.これは日本の学校や会社等では普通に健康診断の一環として行われている.

もちろん,X線撮影のための放射線障害も恐れもないわけではないが,それよりも病気の予防や診断のメリットの方が勝っている.体をCTスキャンして,肺がんや胃がんの健診をしたりする.

最近ではX線による非破壊検査が工業的にいろいろなところで行われている.大きな船の船体の鉄板でできた船腹の壁のどこかに小さな傷(crack)が入っていないか,または原子炉の格納容器に亀裂が入っていないかX線の診断機で調べるのが普通である.

航空機の機体などもそうやって検査するのだと思う.そういう検査を\textgt{非破壊検査}という.

特性X線についてはここで詳しいことを述べないが,いわゆるボーアの原子の量子論の確証と原子番号$Z$の物理学的な意義を確定した功績はとても大きい(注:原子番号$Z$は元素の原子核内の陽子の数であることがMosleyの法則によって確かめられた.ちなみにMosleyはイギリスの優れた実験物理学者であったが,第1次世界大戦のときに若くして戦死した.メンデ—レーフの元素の周期律は実はこのMosleyの研究で確定をした).特性X線は原子の内側軌道に存在する電子が空席になることによって,より外側軌道にある電子が内側軌道に遷移するために発生する電磁波である.X線の波長が可視光の波長よりも小さいために可視光にならないが,光とX線とは原子から発生する点で同じメカニズムである(注:ガンマ線の場合は原子核から発生する.その点でガンマ線はX線とは単に電磁波としての波長の違いだけではなく,発生機構の違いがある)

もちろん,このようなX線の利用とか応用とかは直接にはレントゲンとは関係がないが,それでもX線の発見がその契機を与えたことはまちがいがない.

またその後,X線回折と言われる新しい物質の結晶構造を解析する手段が開発された.

レントゲンが優れた実験家であったということを記す,事実がある.これは上にも何度か引用したレートンの書の脚注につけられたつぎのような注意からも明らかである.

(引用はじめ)
後から考えてみると,X線が発見される数年前から,すでに多くの実験室に(X線が)存在していたことが確かなようである.なぜならば,そころの高電圧を用いた気体放電管がしばしば使われており,そこからX線が発生するからである.レントゲンは単にそれらに注目した最初の実験家であるにすぎない.(中略)この種の経験は,予期しないものに対して大きく目を開き,それに備えるのが大切であることを示している.最初は正確な測定を妨げる厄介な実験的障害に思われた効果でも,のちに,測定しようとする量よりもはるかに重要なものとなるかも知れないのである.(引用終わり)

実際,いったんX線の存在が明らかになってしまうと自分の方が先にX線を観測していたということを主張する実験家は一人二人ではなかったことを私たちは知っている.

よく言われることであるが,観測することと発見することとは同じではない.観測してもそれが新しい事実であることがはっきり認識されなければ,発見とはならない.

5.レントゲンの生涯
レントゲン(Wilhelm Conrad R\"{o}tgen)は1845年3月27日ドイツのレンネップで生まれた~\cite{山崎}.レンネップは現在はレムシャイトの一部となっており,日本では刃物の町として有名なゾーリンゲンの近くの町である.日本の商社等の支社や営業所が多くあるデュッセルドルフからもそれほど遠くはない,ライン河下流の地域でオランダにほど近い.

お父さんはドイツ人で織物の製造と販売をする職人兼商人である.お母さんはオランダ人であった.だからかどうかは知らないが,レントゲンは戸籍の上ではオランダ国籍であったという.だが,その当時国籍という概念が今ほどはっきりしていたのかどうかわからない.
1848年一家はオランダのアッペルドルンに移り住んだ.そこで初等教育を受けた後,ユトレヒトの工芸学校に入った.しかし,彼はその途中で事件に巻き込まれ,退学処分となる.それで大学への入学資格が得られなかった(注:ヨーロッパでは大学入学資格がないと大学に入学できない.その大学入学資格はフランス語圏ではバカロレアという.またドイツ語圏ではアビトューアという).それでもユトレヒト大学の聴講生となるが,大学への入学資格をもっていないために正規の大学の学生となることができない.

そのときに,トールマン(Tohrmann)という学生と親しくなる.彼はスイスの出身であるが,父親のユトレヒト赴任について来てユトレヒト大学の学生になっていた.彼はレントゲンが大学入学資格がないために正規の大学生になれないことに深く同情して,スイスのチューリッヒ(Z\"{u}rich)にあるポリテクニク\footnote{現在ではこの学校はETHという略称で呼ばれており,最難関の大学である.このETHは約30年後にアインシュタイン(Einstein)の卒業した大学でもある.}は約10年前に創立された準大学であり,その入学試験はアビトューアがなくても受験できることを教えてくれた.

ところが受験前に病気にかかり,受験ができなくなったが,ユトレヒトの工芸学校の成績と共に病気のために受験できないという医師の診断証明書を校長に送った.その手紙に心を動かされた校長はレントゲンが無試験でポリテクニクム(工科大学)に入学できるように取り計らい,それが許された.

工科大学でははじめ熱力学をつくったことで有名なクラウジウスに学び,その後クントに学んだ.その後チューリッヒ大学で学位をとり,クントの助手となった.またクントが大学を変わったときにクントについて行って勤務する大学を変えた.その後,レントゲンは大学教授となった.教授となって4つ目の大学として1888年にヴュルツブルク大学に勤めることになった.そして7年後の1995年に大発見をすることになった.

5.1でもX線の発見の様子が描かれてはいるが,イタリア出身の物理学者セグレによる「X線の発見」の記述はつぎのようである(『X線からクォークまで』~\cite{セグレ}から引用した).

(引用はじめ)
1895年11月8日の夕方のこと,レントゲンはヒットルフ管を操作していた.彼はそれを黒いボール紙でしっぽり覆っておいた.部屋は完全に暗くしてあった.管から少し離れた所には,スクリーン用に白金シアン化バリウムを塗った紙が一枚置かれていた.驚いたことに,レントゲンはこの紙が蛍光を発するのを見たのである.スクリーンが発光するからには何かがそれに当っているはずであるが,彼の管は黒いボール紙で覆ってあったので,光も陰極線も,そこから外に出てくるはずはない.この思いもよらぬ現象に驚き,かつ不思議にも思い,彼はもっと研究してみることにした.スクリーンを裏返して,白金シアン化バリウムを塗っていないほうが管に向かい合うようにしてみた.しかし,相変わらずスクリーンは蛍光を発している.スクリーンからもっと遠ざけてみたが,やはり蛍光は続いている.次にいろいろな物体を何種類か管とスクリーンとの間に置いてみたが,どれもそのスクリーンに向かう何物かをさえぎらないようであった.管の前方に手を出すと,スクリーンにその骨が見えた.つまりレントゲンは「新種の放射線」を見つけたのである.
(引用終わり)

こういう風に一時にすべてのことを発見できたとは私は思わないが,それでも彼の何週間かの研究の過程で起きたことを多分述べていると思われる.

レントゲンは一人で実験するのが常であったという.11月8日から実験室にこもって研究をした.自分でも信じられないような現象に出くわしたので,その新しい放射線の存在を確認するために何回も何回も繰り返して実験をした.ようやくいろいろ発見した現象を写真乾板上に記録してようやく自分の発見を確信したという.

(引用はじめ)
1895年12月28日,レントゲンは,ヴュルツブルクの物理・医学協会の秘書に論文の初稿を渡した.これはすぐに印刷されて,1986年1月の初めのうちにほうぼうへ送られた.(中略)この発見に続く数か月の間,レントゲンは世界中からの講演の招待を受けたが,ただ一つを除いて,他のどんな招待もみな,断ってしまった.自分のX線の研究を続けたかったからである.
(引用終わり)

レントゲンはこの業績により1901年にノーベル物理学賞を受けた.そのノーベル物理学賞の賞金は全部ヴュルツブルク大学に寄贈したという.また,X線についての特許をとることをある会社に提案されたが,まったく特許をとるつもりがないことをその会社に告げたという.ノーベル賞を受ける前の1900年にミュンヘン大学に移った.第一次世界大戦後のインフレのために破産して老後は大変だったらしい.1923年2月10日にミュンヘンで亡くなった.78歳だった.

6.おわりに
もう1年か2年レントゲンが長生きしていれば,ドイツ語圏で起こった量子力学の誕生に出会えたことだったろう(注*:Heisenbergたちによる行列力学が1925年に発表され,またSchr\"{o}dingerによる波動力学の発表は1926年であった)だが,老齢のレントゲンにはそのことは知る由もなかったかもしれない.

レントゲンは機械工作が得意で,そのことが彼がX線の発見に成功した理由かもしれない.この器用さや機械が好きなことは彼の父親譲りであったと思われる.

大学入学資格をとれなかったために大学に入学できなかったというエピソードの持ち主でもあるが,そういうハンデを優秀なレントゲンははねのけてしまった.もっともX線の発見以外に後世に残る業績を上げているというわけではないが,一つの偉大な発見をすれば人生には十分すぎるであろう.


\bibitem{リード}
ロバート・リード(木村絹子 訳),『キュリー夫人の素顔』(共立出版,1975)114-115\bibitem{新村出}
新村 出編,『広辞苑』第5版(岩波書店,1998)
\bibitem{レートン}
R. B. レートン(斎藤・並木・山田・小林 訳),『現代物理学概論』(岩波書店,1970)399-449
\bibitem{山崎}
山崎岐男,『X線の発見者 W.C. レントゲン』(出版サポート大樹社,2014)
\bibitem{セグレ}
セグレ(久保亮五,矢崎裕二 訳),『X線からクォークまで』(みすず書房,1983)27-34
\end{thebibliography}


読者からの手紙

『ドイツ語圏とその文化』をいつもありがとうございます.終りまで目を通しています.貴兄の世界の拡がりに期待をしています.

ところで1巻2号のMayerの血液の色の話ですが,むかし初めてこの話を読んだとき,色の明度が変わるのは間違いだろうと思いました.その後,目にしたいくつかの教科書的な本でも,色の変化の真否については何も書かれていなくて,これを元にしたMayerの推論だけが書かれていました.歴史的事実としてはよろしいのですが,何か一言,簡単な言及が欲しいところです.間違ったデータから,正しい結論が引き出されることは,よくありますが,この場合はMayerの自然観と論理性が正しい結論を与えたのでしょうか.

波爛万丈のMayerですが,Rumfordもいろいろですね.マサチュッセッツ生まれで,アメリカ独立戦争では王党派だったため,追われて英国に亡命(独立前だから“亡命”ではなく,本国に逃れたというべきですか),火薬と砲弾についての研究が認められて,Bayern王につかえて・・・というご存知の次第ですが,独立したアメリカといつ“和解”したのでしょうか.物理学者が主に受賞しているアメリカ芸術科学アカデミーのRumford賞はRumfordの寄付が元のようなので,生前に和解したのでしょうか.現代は和解の難しい時代ですね.(M. Y.)\\

(答)
メール有難うございます.

マイヤーの血液の色の鮮明度の件は山本義隆氏の『熱学思想の史的展開』(現代数学社)のp.318に\\

(引用はじめ)
「今日の医学の常識からすると,ドイツと南洋との温度差くらいで静脈の血の色がそれほど違うことはないそうであるからこれはたいへん偶然的な,もしかしたら間違いあるいは錯覚が原因になった発見なのかもしれない」(渡辺正雄)という指摘の方が現実的な気がする.
(引用終わり)

とあります.それを踏まえてどこかに注釈をつけたのですが,そのことをもっとはっきりと指摘しておくべきだったかもしれません.しかし,そのことを当然と思ってしまったので,詳しい言及と注意をしなかったのだと思います.

ちなみに上に引用された渡辺さんの参考文献は「エネルギー概念の成立」で,東京大学公開講『エネルギー』(東京大学出版会,1974)p.17です.こちらの方はまったく見ておりません.



特殊相対論とミンコフスキー

2024-05-27 10:39:34 | 物理学
これは「ドイツ語圏とその文化」というメール配布の自作の雑誌に掲載されたものの一部である。数式を入れた説明であったのだが、数式や写真はうまくコピーができなかった。それで近いうちに、数式とか写真付きの元の原稿どこか別のところに掲載したいと思っている。

3.1 はじめに
相対性理論は特殊相対性理論(以後特殊相対論と略称)も一般相対性理論もアインシュタインが提唱したということはよく知られている.
平面上での平行移動や回転運動で図形の形が変わらない幾何学がユークリッド幾何学であるが,それと同じような観点を特殊相対論に持ち込んだのがミンコフスキーであった.このことによって特殊相対論はとてもわかりやすくなった.

アインシュタインの考えたローレンツ変換を幾何学的に解釈し直したミンコフスキーのアイディアを学んで,ものわかりのわるい私などもようやく特殊相対論がわかるようになった.

3.4 ミンコフスキー
ヘルマン・ミンコフスキー(1864-1909) は優れた数学者として認められていたが,若くして亡くなった.そのためかあまり一般の人々の話題に上らない.
3.4.1 ミンコフスキーの生涯
Wikipedia [3] から彼の生涯を抜粋して引用する.

図3.2: Herman Minkowski(1864-1909) [ミンコフスキーの肖像はうまく取り込めなかった。]

ミンコフスキーは1864 年6 月22 日,ロシアのアレクソタス(現リトアニア領カウナス近郊)に生まれた.

両親はドイツ系で,8 歳のときに家族でケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)へ移住した.ケーニヒスベルク大学ではヒルベルトとともにフルヴィッツの元で学び,この二人とは終生の友人となった.

ミンコフスキーは若い頃から数学的才能を示し,18 歳のときに整数を5 個の平方数に分解することの研究によってスミスとともにフランス科学アカデミーから科学アカデミー数学大賞を受賞した.

ケーニヒスベルク大学卒業後すぐにボン大学で,続いてヒルベルトの後をうけてケーニヒスベルク大学で数学の教鞭をとった.続けてチューリヒのスイス連邦工科大学(ETH) の教授に就任した.ここでの教え子に,若き日のアインシュタインがいた.

1902 年,ヒルベルトの努力でゲッティンゲン大学にミンコフスキーのために数学の講座がつくられ,その教授となった.1907 年までに,時間と空間を統一的に扱うミンコフスキー空間の概念を作った.1909 年1 月12 日,ミンコフスキーは盲腸炎によって44 歳の若さで急死した.

3.4.2 業績の概観
Wikipedia [3] によるとミンコフスキー空間と呼ばれる四次元の空間により,アインシュタインの相対性理論に数学的基礎を与えた.また,時空を表すための方法として光円錐を考えたという.

特にミンコフスキー空間に関して,ミンコフスキーは,空間と時間を別々の量としてではなく,四次元の多様体として統合して記述することを考えついた.

アインシュタインは一般相対性理論ではリーマン幾何学を用いたが,この理論では重力は時空の曲率によって表される.重力が光速で伝播することを最初に述べたのはミンコフスキーだという.

3.4.3 エピソード
矢野健太郎の『アインシュタイン伝』[4] によれば,アインシュタインが1897 年にETH に入学したとき,まだミンコフスキーは33 歳の若さだが,数学の教授であった.しかし,ミンコフスキーはあまり講義が上手ではなかったらしい.ミンコフスキーのせいかどうかはわからないが,アインシュタインはこのごろ数学に興味を失い,物理学への道を進んだという.

アインシュタインは学校の講義にはあまり出席をせず主として友人のノートを借りて勉強をして,試験をクリアしたらしい.1905 年にアインシュタインが特殊相対性理論の論文を発表したとき,ミンコフスキーが「あのさぼりのアインシュタインが· · · 」と言ったとかものの本にはあるが,これは話を面白くしようとした後世の人の作り話かもしれない.だが,講義にアインシュタインが出席しなかったことはあながちうそではない.

ところがその3 年後の1908 年に当時ゲッチンゲン大学にいたミンコフスキーが特殊相対性理論の見事な数学的解釈を与え,以後数学者にも物理学者にも近づきやすいものとしたのは歴史の皮肉であるかもしれない.

特殊相対性理論を空間と時間の4 次元幾何学として展開した一端はすでに上に述べた通りである.そして残念なことにこの論文の発表のつぎの年の1909 年にはミンコフスキーは亡くなってしまった.

リードの著作『ヒルベルト』[5](岩波書店)にはケーニヒスベルク大学在学中からヒルベルトの学友であった,ミンコフスキーのことが少なからず出てくる.

3.5 おわりに
物理学や数学ではミンコフスキーはミンコフスキー空間という名で残っており,忘れられてはいないが,それでも相対性理論の提唱者として知られている,アインシュタインほどには一般に知られていない.いつかミンコフスキーを一般の方々に紹介したいと思っていたが,その機会を得ることができて幸いである.

今年は2013 年で1909 年にミンコフスキーが亡くなってから100 年以上が経ってしまった.この特殊相対論を幾何学的に考えるというアイディアはアインシュタインが一般相対性理論を幾何学的に考えるという端緒を与えることにもなった.その意味でも意義深いアイディアであった.


科学者の短い伝記

2024-05-26 16:46:57 | 本と雑誌
「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで書いた文章をこのブログにも再録をした。これは一番初めはDeutsche Gruppe in Ehimeだったかの会報で書いたものだったが、それを「燧」という雑誌に転載した。

この「燧」は私の高校時代の歴史の T 先生が彼の退職後何年かにわたって死の直前まで発行していた雑誌である。愛媛県立図書館にはこの雑誌「燧」のバックナンバーがそろっていると思う。

ブログに転載したのでそれでお終いにしてもいいのだが、「数学・物理通信」の原稿のないときには、そこにも三度目か四度目の転載をしておきたいと考えるようになった。実はこれ以外にやはり「ドイツ語圏とその文化」というメール配布の雑誌を数号発行したことがあった。

その中に数人ドイツ語圏の科学者を取りあげたことがある。そのことを忘れていたのだが、片面だけプリントした原稿の裏側をノート代わりに使っているので、その裏側に科学者の短い伝記を書いたエッセイがあった。

それをどこに書いたか調べたら、「ドイツ語圏とその文化」に掲載されたことを思い出した。それでその数人についてもこの際まとめて「数学・物理通信」に転載しておきたいと考えている。その前にこのブログにも掲載するかもしれない。

「ドイツ語圏とその文化」で取りあげた科学者はミンコフスキー、レントゲン、マイヤー、それにこれはまだ文章が完成していないらしいが、エミ―・ネターである。ネタ―の伝記はぜひ完成させておきたい。


道後ドイツフェスタ

2024-05-25 12:37:56 | 本と雑誌
もう今は正午を過ぎているので、少ししたら道後ドイツフェスタが始まる。

どれくらいの人がそこに集まるのか想像がつかない。知人の愛媛日独協会会長の安藤さんがドイツのフライブルクのこととかドイツ事情を話す短いスピーチを14時と16時の2回もするらしい。

私たち夫婦も二人で行ってみるつもりである。この秘密ジャナイ基地は道後の宝厳寺の階段を下りてきたところに小さな建物があるが、そこである。

いつだったか道後の伊佐爾波神社を参詣した後で妻がこの近辺を観光案内してもらったことがあるというので、一緒に宝厳寺を訪れたことがあった。

そこで観光案内してくれた、知人のTさんに会って、秘密ジャナイ基地を教えてもらったという経緯がある。本場ドイツ料理を購入して食べたり、ワインの試飲ができるとか。

べルリン名物のカリーブルストを食べてみたいなと思っている。ちなみに、これはパンがついて、お値段が600円だという。

源氏物語

2024-05-24 15:43:42 | アート・文化
いつも第4土曜日にしている雑談会を第4金曜日に一日早めて行った。

今日は源氏物語についてのお話であり、普段はあまり文学に関係のない私たちへの話をして下さったのは詩も書かれている、Kさんであり、以前に大学の国語の時間で源氏物語を取りあげたことがあったという話であった。

なかなかたくさんの資料を持ち込んでの熱の入ったお話であった。源氏物語絵巻という絵のシリーズもあるのだという。

聞くほうがなかなか理解力がなくて、レポートをして下さった先生としてはあまり話甲斐がなかったかもしれない。だが、力のこもったレポであることはだれも認めたことであろう。 

私たちのメンバーは以前には小説を書いたり、シナリオを書いたりする方もきておられたのだが、その方も体の不調で来られなくなって久しい。

しばらくぶりの文学関係のレポ-トとなった。



課題は3つある

2024-05-23 12:14:40 | 数学
私がこれから取り組もうとしていることには、今私の知る限り3つの課題があることがわかってきた。

これらは黙って通り過ぎることもできようが、ここで課題だとわかってしまった以上は自分のわからないままに過ごしてしまうことはできないだろう。

それらが私に十分理解できることかどうかはわからないが、わからないといけないという風に自分では思っている。これはすでに私以外の方々には既知の事柄なので、私がそれらの課題をたとえ納得してクリアしたとしても数学の世界の認識には全く影響を与えたりはしない。

私は今までにもいくつかの自分に課した課題をクリアしてきたのだが、いま直面している課題のうちの3つ目の課題は私の手に余るものかもしれない。それでも何とかしなくてはならないだろうと、いまは考えている。

その3つの課題が何かをここでいうのはすこし恥ずかしい。これらは世の数学を学んでいる方々にはすべて既知の事柄だからである。




5月の子規の俳句

2024-05-22 12:51:57 | 本と雑誌
今月の子規の俳句を紹介しよう。

 凛(りん)として牡丹動かず真昼中    子規
 dignified
    the peony is motionless
    at midday                                    Shiki  1896

E大学校友会の5月の暦には伊予西条市の法安寺の庭のボタンの写真が載っている。ひょっとしたら、このお寺のお庭は以前に牡丹の鑑賞のために、訪れたことがあると思う。昔からこの庭のボタンは有名である。

私の実家の庭にも庭先に一群の牡丹の木の咲いている、そんな庭の一角があった。今はそれがなくなって久しいと思う。それともまだ残っているのかもしれない。
    

証明のための図

2024-05-21 10:42:48 | 数学
証明のための図を描く必要がまたできている。

それでその図を描くためには座標の数値がいるので、どうやってその数値を求めるかに苦心している。こういうところがtikzによる作図の弱点かもしれない。しかし、私のような作図の技術のない者にもきれいな図が描ける魔法のようなソフトである。

ただ、点の座標を前もって計算しておく必要がある。数式だけを入力するlatexはある意味で無味乾燥的だが、一方、図は出来上がるとすがすがしい感じがする。もっともきちんとできたときにはの話だが。

図を描くのは面倒であるので、できたら避けたいことの一つである。だが時々は仕方なく描かざるを得ないときがある。





複数の本をもつこと

2024-05-20 11:16:42 | 数学
同じテーマの複数の本を持つことは大切である。

というのはある本で分からなかったところが、別の本で分かることが多いからである。

何を言い出したのかといぶかられるであろうが、単純な話である。第二余弦定理の証明の図が『ピタゴラスからオイラー』までに出ているのだが、この図の記号を変えたいと思った。

ところが三角形の頂点の記号A, B, Cを逆順送りするだけだが、そのときになかなかうまく同じ証明ができなくなってしまった。それでほぼ一日を空費したのだ。

他の本を取り出して読んでみたら、なんのことはない。垂線を下ろすところだけを変えればよかっただけであった。

そういうことで私の一日の空費は何だったのかということなったが、転んでもただでは起きない。第二余弦定理の証明のためにはどの三角形の辺に向けて垂線を下ろすかが重要なのだということがわかった。もちろん、こういうことはどの本にも書いていないのだが。それは自明のことなのだからであろう。

「余弦定理 3 」のエッセイ

2024-05-19 10:19:05 | 数学
「余弦定理 3 」のエッセイとは、これから書きたいと思っているエッセイである。

余弦定理1, 2の昔のエッセイの改訂版を書き上げたので、続いて「余弦定理 3 」のエッセイを書くための読書を始めた。

というのも、すでに『3Dグラフィックス数学』(ボーンデジタル)の付録に余弦定理のちょっとおもしろい証明が出ているのを以前に見つけていた。

それに昨日も書いた『ピタゴラスからオイラーまで』(海鳴社)にも余弦定理の丁寧な証明がある。その他にも今まで参照しなかった本に載っている、余弦定理の証明を調べて整理しておきたいという気がしている。

「そういうことをやって何の役に立つのか」と言われれば、何の役にも立たない。ただ自分の好奇心を満たすだけである。

また、証明に使う図形の記号の取り方の考察もしてみたいと考えている。これはちょっと説明が難しい。まったく本筋の考察ではないのだが、そういうことも述べておきたい。

ところが、この説明をどういう風なところに置いたらいいのかと、考えあぐねている。本来は脚注で書くべきことなのだろうが、脚注に収まりそうにないほどかなり多くの文章を書かなくてはならない予想がされている。説明をわかりやすくするため、図も描いておきたい。それでその文章を書く前から困っている。

夜明けのまどろみの中で私の無意識の状態だが、勝手に私の脳の潜在意識が考えているらしい。こういう状態は誰にでもあると思うが、大多数の方々はそういう状態があるということを表現する場所をもっていないだろうか。





第2余弦定理の証明図の完成

2024-05-18 17:48:17 | 本と雑誌
ようやくを第2余弦定理の証明図を描き上げた。

結局エレガントないい方法は思いつかず、泥臭い方法での描図であった。だが、以前の『数学散歩』に掲載された、いかにも精密さを欠いた図よりはよくなったと思っている。

もっともtikzでの図は座標の数値を入れての図を描くので、サインとかコサインとかの数値をカシオ計算のサイトで計算をさせてもらった。ここで御礼を申し上げておきます。もし、カシオ計算のサイトがなかったら、計算はできなかったであろう。その場合には図は描き上げることはできなかったはずだ。

知人には、いまでもベーシックか何かで計算することのできる方もおられるが、いまの私にはそういうことがもうできない。

もちろん、べーシックを再度学んでプログラムを書くこともできようが、いまの私には面倒でできそうにない。