(幡豆郡吉良町駮馬(まだらめ))
吉良の町、遠くに西尾が見渡せる丘陵に築かれた城であり、本丸、二の丸、三の丸及び帯曲輪を配する。
本丸北側には櫓台跡があり、二の丸跡には建長年間(1249~55)に勧請された八幡社が建つ。
平成4年に城門、物見櫓が模擬再現され、史跡公園として整備された。
三河守護となった足利義氏は、承久三年(1221)西条城(西尾城の前身)を築き、その後義氏の長男長氏に西条城を、三男義継に東条城を構えさせ、義氏は次男泰氏とともに下野足利に帰った。
以後、この地の足利氏は吉良氏と改姓し、この地を支配する。
応仁の乱の際、西条吉良氏は細川氏、東条吉良氏は山名氏にそれぞれ属し、東条吉良五代義藤は敗れた。
義藤の孫持広の代に西条家より義尭次男義安を嗣子とし、両家の関係は修復される。
永禄四年(1561)義安弟義昭のとき、松平元康に攻められ降伏するも、三河一向一揆を指揮したため、永禄七年(1564)に再び攻められ、義昭は近江国に転じた。
そして義安の子義定が家康との従兄弟関係により召し出され、岡山村に旗本吉良陣屋を築いた。(高家吉良家、吉良上野介義央の祖)
永禄七年義昭追放後は、松平氏が入城する。
元来吉良氏臣で、後に松平氏に属し東条城攻めにも参加した松井忠次が、妹を青野松平家忠茂に嫁がせ、後に東条松平家が成立したともいわれている。
そして忠次は天正三年(1575)の乗本砦攻め参戦、諏訪原城守備等それら功により松平姓を名乗り、東条松平家の重臣となったという。
その松井忠次改め松平康親は城内に法応寺を創立、昭和30年頃まで存在していた。その康親の墓が、城跡の近くに存在する。
天正十八年(1590)松平忠吉の代、家康の関東移封に伴って武蔵忍に移封、東条城は廃城となった。
吉良の町、遠くに西尾が見渡せる丘陵に築かれた城であり、本丸、二の丸、三の丸及び帯曲輪を配する。
本丸北側には櫓台跡があり、二の丸跡には建長年間(1249~55)に勧請された八幡社が建つ。
平成4年に城門、物見櫓が模擬再現され、史跡公園として整備された。
三河守護となった足利義氏は、承久三年(1221)西条城(西尾城の前身)を築き、その後義氏の長男長氏に西条城を、三男義継に東条城を構えさせ、義氏は次男泰氏とともに下野足利に帰った。
以後、この地の足利氏は吉良氏と改姓し、この地を支配する。
応仁の乱の際、西条吉良氏は細川氏、東条吉良氏は山名氏にそれぞれ属し、東条吉良五代義藤は敗れた。
義藤の孫持広の代に西条家より義尭次男義安を嗣子とし、両家の関係は修復される。
永禄四年(1561)義安弟義昭のとき、松平元康に攻められ降伏するも、三河一向一揆を指揮したため、永禄七年(1564)に再び攻められ、義昭は近江国に転じた。
そして義安の子義定が家康との従兄弟関係により召し出され、岡山村に旗本吉良陣屋を築いた。(高家吉良家、吉良上野介義央の祖)
永禄七年義昭追放後は、松平氏が入城する。
元来吉良氏臣で、後に松平氏に属し東条城攻めにも参加した松井忠次が、妹を青野松平家忠茂に嫁がせ、後に東条松平家が成立したともいわれている。
そして忠次は天正三年(1575)の乗本砦攻め参戦、諏訪原城守備等それら功により松平姓を名乗り、東条松平家の重臣となったという。
その松井忠次改め松平康親は城内に法応寺を創立、昭和30年頃まで存在していた。その康親の墓が、城跡の近くに存在する。
天正十八年(1590)松平忠吉の代、家康の関東移封に伴って武蔵忍に移封、東条城は廃城となった。