(岐阜県羽島郡岐南町)
永禄の頃(1558~69)織田信長臣木下秀吉が築いた城塞で、当時は北側を流れていた木曽川の水運を利用し迅速に築かれた城であることから、一夜城とも称された。
天正十二年(1584)小牧長久手の戦いの際には、北端の城代として伏屋(ふせや)市兵衛が守った。
伏屋氏は、伊那園原伏屋(長野県下伊那郡阿智村)からこの地に移り住んだ武士で、当初は諏訪氏臣であった。
天文十一年(1542)武田晴信が諏訪氏を攻めたことによって諏訪氏臣は離散し、伏屋氏は木曽川沿いのこの地に移り住み、付近を開拓。現在も城跡の東側に鎮座する諏訪神社を勧請し、以後代々この地に住した。
現在も末裔が住み、城跡が記載されている伏屋村絵図を所蔵している。その絵図には、二十二間四方(40m)の郭が四つあり、その一部が現在も残っている。
(関連記事:御成道伏屋 墨俣城)
永禄の頃(1558~69)織田信長臣木下秀吉が築いた城塞で、当時は北側を流れていた木曽川の水運を利用し迅速に築かれた城であることから、一夜城とも称された。
天正十二年(1584)小牧長久手の戦いの際には、北端の城代として伏屋(ふせや)市兵衛が守った。
伏屋氏は、伊那園原伏屋(長野県下伊那郡阿智村)からこの地に移り住んだ武士で、当初は諏訪氏臣であった。
天文十一年(1542)武田晴信が諏訪氏を攻めたことによって諏訪氏臣は離散し、伏屋氏は木曽川沿いのこの地に移り住み、付近を開拓。現在も城跡の東側に鎮座する諏訪神社を勧請し、以後代々この地に住した。
現在も末裔が住み、城跡が記載されている伏屋村絵図を所蔵している。その絵図には、二十二間四方(40m)の郭が四つあり、その一部が現在も残っている。
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