(松代城 待城 松城 長野市松代町 国指定史跡 日本100名城28番 日本の歴史公園100選115番)
川中島八幡原、胴合橋から千曲川松代大橋を渡り、松代のまちに差し掛かる。
何やら伝統漂う雰囲気のまちであり、先ず、長野電鉄松代駅のすぐ裏手にある松代城へ向かった。
二の丸南門から城内に入り、内堀に架かる太鼓門前橋を渡って太鼓門をくぐると、そこは本丸である。
建物、石垣等城内全ての遺構は、平成に入ってから行われた発掘調査によって、検出された遺構と絵図とを照合し、修復及び藩末期の城郭が再現されている。
千曲川側の本丸搦手に建つ水ノ手御門(北不明門)や東不明門前橋、二の丸引橋等は調査で検出された基礎、橋脚を基に再現されている。
(東不明(あかず)門前橋)
(二の丸土塁越しに尼巌(あまかざり)城、奇妙山方面を望む)(二の丸引橋)
(北側土塁)
(北不明門)
(戌亥櫓跡石垣)
(埋門)
海津城は元々、村上氏臣であり、背後の鞍骨城主清野氏が住む館であったが、永禄初年武田信玄(或いは信玄が山本勘助に命じて)によって改修、拡張されたものとされ、開城から「第四次川中島」の際にかけて高坂昌信が守り、合戦時にはいわゆる「きつつき戦法」の策がとられた。
甲斐武田氏滅亡の天正十年(1582)「天目山」以後、織田信長臣森長可が入ったが、間もなくして北畠氏族である田丸直昌が入った。
「本能寺」以後は上杉氏、豊臣氏の縄張りとなり、「関ケ原」後の慶長五年(1600)森忠政が美濃金山より十三万七千五百石で入り、待城或いは松城と改称、「川中島藩」が置かれた。
慶長八年(1603)忠政が美作津山へ移封すると、下総佐倉より十四万石で松平忠輝が入る。そして慶長十五年(1610)越後高田へ移封すると、常陸下妻より越前松平家忠昌が入り、「松城(松代)藩」となった。
元和二年(1616)忠昌が越後高田へ移り、入れ代わって酒井忠勝が入る。そして元和八年(1622)忠勝が出羽庄内に移ると、信濃上田より十万石で真田信之が入り、以後、廃藩になる十代幸民まで真田氏が藩主となった。また、真田氏三代幸道のとき、「松代」と統一されている。
松代城から「歴史的道すじ」及び松代藩文武学校へと歩みを進めた。
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