(生田屋敷 愛知県岡崎市美合町)
名鉄電車の窓から石碑が見える。これは昭和55年に建てられた「生田城趾」の碑である。
私が初めて訪れたのは昭和54年、まだ石碑は建っておらず、同じ一角が草生地となっていて、文字の読み取れなくなった「生田城趾」の木の標柱が斜めにポツンと建っていた。
その後、城の北西側を通る主要地方道岡崎刈谷線の築造工事が始まり、名鉄線をくぐる道路の工事が始まった。その際、名鉄線は城跡側に仮線を造ったため、城跡がより身近に見えたことを思い出す。
足利氏族とされる荘田氏(生田氏)が鎌倉街道沿いのこの地に城を構えたのが始まりという。建暦元年(1211)生田四郎兵衛が、熊野権現から勧請し、村内に日吉神社を創建したとあり、その頃の築城と考えられる。
その後、荘田安守のとき松平清康に仕え、明和年間(1764-71)重勝のとき、豊前中津藩家老になるのに際し、廃城になったという。
また、天文十一年(1542)「小豆坂」の戦いの際、この地に今川勢が陣を敷いている。
城跡には、第二次世界大戦まで「石橋地蔵」が存在したといい、生田氏臣が城内の石橋に使われていた地蔵を安置したという言い伝えがある。
辺りの開発が進んでも、「生田蛍」はしっかり生き続けているようだった。
名鉄電車の窓から石碑が見える。これは昭和55年に建てられた「生田城趾」の碑である。
私が初めて訪れたのは昭和54年、まだ石碑は建っておらず、同じ一角が草生地となっていて、文字の読み取れなくなった「生田城趾」の木の標柱が斜めにポツンと建っていた。
その後、城の北西側を通る主要地方道岡崎刈谷線の築造工事が始まり、名鉄線をくぐる道路の工事が始まった。その際、名鉄線は城跡側に仮線を造ったため、城跡がより身近に見えたことを思い出す。
足利氏族とされる荘田氏(生田氏)が鎌倉街道沿いのこの地に城を構えたのが始まりという。建暦元年(1211)生田四郎兵衛が、熊野権現から勧請し、村内に日吉神社を創建したとあり、その頃の築城と考えられる。
その後、荘田安守のとき松平清康に仕え、明和年間(1764-71)重勝のとき、豊前中津藩家老になるのに際し、廃城になったという。
また、天文十一年(1542)「小豆坂」の戦いの際、この地に今川勢が陣を敷いている。
城跡には、第二次世界大戦まで「石橋地蔵」が存在したといい、生田氏臣が城内の石橋に使われていた地蔵を安置したという言い伝えがある。
辺りの開発が進んでも、「生田蛍」はしっかり生き続けているようだった。