(愛知県西尾市寺津町)
巨海から寺津に差し掛かる。
縄文時代晩期初頭からの営みがあるこの地。かつては寺津貝塚と呼ばれ、この地方の編年標式となっている寺津式土器が出土した枯木宮貝塚を始め、古くからの人々の痕跡を残している。枯木宮貝塚は、私が西尾市の調査報告書として初めて手にした遺跡である。また、同所には寺津城主大河内貞綱の弟、巨海道綱が居城した巨海城が存在した。
寺津は寺の多い港という意味を持つとも言われ、旧海岸近くには、寺津城跡付近に林立する瑞松寺や金剛院のほか、寺津八幡社東側の浄土宗法海山竜護院妙光寺、更にすぐ東側には、浄土宗重蔵山剣光院養国寺等がある。
妙光寺は室町時代に養国寺から分寺したものであり、江戸後期寺津八幡社神官であった渡辺政香の屋敷にあったという、市指定文化財の薬師如来像が安置されている。
養国寺は応永十年(1403)開山で、当初は養穀寺と書いたが、徳川家康が伊勢神宮参拝の折養穀寺に立ち寄り、「五穀を養うとは即ち国を養うこと」と言い、改字を進言したという。享保八年(1723)建立の本堂、桃山様式の四脚門(山門)、鐘楼門等が残されている。
巨海から寺津に差し掛かる。
縄文時代晩期初頭からの営みがあるこの地。かつては寺津貝塚と呼ばれ、この地方の編年標式となっている寺津式土器が出土した枯木宮貝塚を始め、古くからの人々の痕跡を残している。枯木宮貝塚は、私が西尾市の調査報告書として初めて手にした遺跡である。また、同所には寺津城主大河内貞綱の弟、巨海道綱が居城した巨海城が存在した。
寺津は寺の多い港という意味を持つとも言われ、旧海岸近くには、寺津城跡付近に林立する瑞松寺や金剛院のほか、寺津八幡社東側の浄土宗法海山竜護院妙光寺、更にすぐ東側には、浄土宗重蔵山剣光院養国寺等がある。
妙光寺は室町時代に養国寺から分寺したものであり、江戸後期寺津八幡社神官であった渡辺政香の屋敷にあったという、市指定文化財の薬師如来像が安置されている。
養国寺は応永十年(1403)開山で、当初は養穀寺と書いたが、徳川家康が伊勢神宮参拝の折養穀寺に立ち寄り、「五穀を養うとは即ち国を養うこと」と言い、改字を進言したという。享保八年(1723)建立の本堂、桃山様式の四脚門(山門)、鐘楼門等が残されている。