flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

常楽院閻魔堂

2007-11-15 00:00:35 | まちの違和感
(愛知県西尾市刈宿町)
 天沢山西光院常福寺の東側には、小さなお堂の前にコンクリートでできた二体の鬼が立っている。
お堂の横には、「南常山常楽院大居士」と刻まれた宝筐印塔と、薬師如来、そして舟形(光背)六地蔵が並んでいる。
 堂内には、コンクリート製の閻魔像があり、傍らの壁には、「常楽院」の号額が掲げてられている。閻魔像は、西隣の常福寺大仏と同じ作者である造形師後藤鍬五郎によって造られたものという。また、鬼像は沢常吉という人物が制作したものといい、共に大仏と前後して造られたという。
 新鮮な献花と鬼の手にはミカンと飴玉、地域に親しまれている像たちのようである。
     
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岡崎城 東ノ丸 菅生郭堀

2007-11-14 00:00:30 | 城郭・城下町

(愛知県岡崎市康生町)
 岡崎公園史跡整備計画の一環として、東ノ丸隅櫓跡及び菅生郭堀北法面の調査が行われた。
今回の調査では、東ノ丸の「切り通し」と呼ばれる通路側に存在した隅櫓の石垣の一部が検出された。そして、その後グラウンドとして使われた旧菅生郭堀及び斜面を利用した観客席を部分的に発掘し、法面裾から石垣が検出され、「切り通し」の門礎石らしいものも表れていた。また、石垣上部の斜面からは、本多氏家紋の立葵紋軒瓦が出土した。
 私自身、矢作川と乙川の合流点から、立葵の軒瓦を採集したことがあったが、これは岡崎城から乙川によって流されたものであろう。
 検出された往時の石垣の間からは水が湧出し、乙川に面する丘陵縁端に築かれたこの城の特性が分かった。
(東ノ丸南東角)
(切り通し門跡)
(斜面トレンチ)
(堀石垣、切り通し通路接点)
(検出堀石垣と湧水)
(「観客席」トレンチ)
(調査地全景)

(関連記事:岡崎城 大林寺郭堀 坂谷門 五万石ふじ 岡崎宿

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東国紀行

2007-11-13 00:00:50 | RODEN-哀愁のRailway-

 先日の南総館山から甲斐韮崎までの車窓及び駅構内での光景。
トップは小湊鉄道五井駅、順に木更津駅久留里線ホーム、内房線館山駅から海岸方面を望む、さざなみ号車内から、旧富山町(現南房総市)自然保護憲章、鋸南町勝山城大黒山模擬天守、内房線沿線各駅ほぼ同構造の一つ保田駅、東京湾大観音遠望、富津~横須賀間連絡橋構想看板、東京湾大観音上半身、八王子駅、中央東線鳥沢付近桂川、大月駅富士急行フジサン特急、初狩駅、勝沼町ぶどうの丘、石和付近、韮崎平和観音遠望、最後は小淵沢駅小海線風林火山ラッピング列車である。
                

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西尾2007

2007-11-12 00:00:19 | STRUCTURE-構造物残影-

(愛知県西尾市)
 二年振りの西尾のまち。以前と比べると、既存建物の変化がみられた。
昭和40年(1965)建造の錦城体育館及び隣接した商工会議所の解体、旧井桁屋百貨店の解体、そして昭和36年(1961)建造の西尾市役所の最期間近な状態…。

 老朽化と耐震基準、アスベスト対策によって解体された錦城体育館の跡地は、公園の拡張及び「西尾城」に関する施設を建設するという。

(2005年10月10日の井桁屋百貨店
 一昨年秋には、まだ存在していた旧井桁屋百貨店は、維持管理に対する財政難理由と、街路拡幅によって解体され、跡地は「井桁屋公園」となり、大理石製の看板がモニュメントとして置かれていた。
   
 西尾駅周辺は民家や商店等の一部が立ち退き、自動車工業関連都市でもあるためか、道路拡幅や、駅前の広場が大きくとられ、それに対し、高架化された駅構内は著しく狭い。
 市役所には過去25年前、西尾のまちに最初に訪れたときだけ立ち寄ったが、南側に新庁舎の建設工事が進んでおり、平成21年度を目処に整備されるというが、本当に財政難かと感じた。然し、市の様々な徴収価格等は、周辺都市より割高である。

 訪れ始めの頃、駅周辺の古書店や骨董屋等によく立ち寄ったが、当時から残る店は既に無く、駅前としては西尾劇場だけが、当時からの記憶に残るものとなった…。

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岡崎城 大林寺郭堀

2007-11-11 00:00:17 | 城郭・城下町
(愛知県岡崎市材木町)
 現在は市街地である岡崎城浄瑠璃郭跡北側で、今年2月から試掘調査が行われている、集合住宅築造に伴う岡崎城外堀跡発掘調査地を訪れた。
 飲食店駐車場施設撤去後、9月に入り石垣が検出され、本調査に切り替えられている。今後築造される建物の基礎底部に達する範囲まで掘り下げられた結果、外堀の北側にあたる部分、長さ約30mにわたって石垣が出土し、11月に入って「犬走」部を挟む二段式の石垣構造を成す遺構が確認された。
 この石垣及び堀の位置、規模から、慶長六年(1601)本多康重入城から、五代後の水野忠重の代までにかけて行われた、城郭整備の際に築かれたものであることが、「大林寺慶安年間書上控え」文書によって分かっている。

 その後西側の建物基礎にあたる部分(上部)の石垣は実測調査後取り外され、中央付近の建物基礎の杭が打たれる部分にあたる石垣は撤去された。(写真は杭予定部分より東側部分)
 この日、所有者、工事関係者と、市側の検討の結果、建物基礎にあたる部分の撤去以外は埋め戻され、埋没保存されることになった。この場所での再現保存整備が成されないことは残念だが、取り外された石垣は、岡崎公園内の城跡再現整備の際、その材料に役立てられることになるという。

上段部分の下から三分の二地点に、予定建物の基礎限界を表すマーキングが施されていた。

 
「野面積み」に、「間詰め」が施されている。


(下段部)



(関連記事:岡崎城 東ノ丸菅生郭堀 坂谷門 五万石ふじ 岡崎宿
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一石百観音像

2007-11-10 00:00:41 | 石のまもり
(山梨県韮崎市神山町 市指定文化財)
 武田八幡宮の参道傍らに、ひっそりと佇む。
宝永六年(1709)に造られた高さ1.7mの石像は、元々武田八幡宮の神宮寺に置かれたものであったという。その後同じ村内の玉保寺という寺院に移されたが廃寺となり、現在地に移されたものである。
 石面には阿弥陀三尊と、西国、秩父、坂東の三十三観音を配して刻まれている。
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幡豆郡 今川館

2007-11-09 01:30:56 | 城郭・城下町

(愛知県西尾市今川町 市指定史跡)
 承久三年(1221)足利義氏は三河国守護となった。義氏の庶長子長氏(おさうじ)は、義氏とともに鎌倉から幡豆郡吉良庄西条(後の西尾)に移り住み、吉良氏を名乗った。そして長氏の二男(あるいは養子)国氏に今川庄を分与し、今川氏と名乗ったのが、今川氏の始まりとされる。
 国氏の孫範国(のりくに)のとき、足利尊氏に従って軍功を上げ、遠江、駿河国の守護となり、今川氏は次第に拡大していった。
 現在、字土井堀の一角には、後になって建てられた範国の子貞世(了俊)の供養塔があり、「今川氏發跡地」の石碑が建っている。
「發跡地碑」の近くには、旧上今川村の鎮守諏訪神社があるが、当初から鎮座するのは、旧下今川村にある、国氏創建とされる白山神社であるという。
 また、館跡には遺構が残存していないが、付近には広範囲にわたって、桜堀、東堀、池端、埋池、仲屋敷、大城等の地名が残っている。然しこの中には、「今川」の地名由来ともいう矢作川の氾濫分流を起因とする水辺地名も含まれている可能性がある。
     

(関連記事:今川範国墓所

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巨摩郡 白山城

2007-11-08 00:00:40 | 城郭・城下町
(鍋山砦 山梨県韮崎市神山町 国指定史跡)
 武田八幡宮の背後には、この地の庄官となった武田信義が築いた標高570mの山城がある。
獣避けのフェンスを入り、斜面を上って行くと、城域には三つの郭のほか、地形に合わせた帯(腰)郭があり、それを更に取り巻くように土塁、堀及び堀切、竪堀がみられる。また、隣接する尾根、西側の標高880mの八頭山にムク台(烽火台=のろし)を設け、北側の標高600mの尾根には北烽火台が設けられている。
 武田氏の後は、同族である一条氏、青木氏が守り、徳川氏の世となった山寺氏のときの寛文年間(1661-72)に廃城となったという。
  
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幡豆郡 寺津

2007-11-07 00:00:53 | いにしえの人びと
(愛知県西尾市寺津町)
 巨海から寺津に差し掛かる。
縄文時代晩期初頭からの営みがあるこの地。かつては寺津貝塚と呼ばれ、この地方の編年標式となっている寺津式土器が出土した枯木宮貝塚を始め、古くからの人々の痕跡を残している。枯木宮貝塚は、私が西尾市の調査報告書として初めて手にした遺跡である。また、同所には寺津城主大河内貞綱の弟、巨海道綱が居城した巨海城が存在した。
   
 寺津は寺の多い港という意味を持つとも言われ、旧海岸近くには、寺津城跡付近に林立する瑞松寺や金剛院のほか、寺津八幡社東側の浄土宗法海山竜護院妙光寺、更にすぐ東側には、浄土宗重蔵山剣光院養国寺等がある。
  
 妙光寺は室町時代に養国寺から分寺したものであり、江戸後期寺津八幡社神官であった渡辺政香の屋敷にあったという、市指定文化財の薬師如来像が安置されている。
  
 養国寺は応永十年(1403)開山で、当初は養穀寺と書いたが、徳川家康が伊勢神宮参拝の折養穀寺に立ち寄り、「五穀を養うとは即ち国を養うこと」と言い、改字を進言したという。享保八年(1723)建立の本堂、桃山様式の四脚門(山門)、鐘楼門等が残されている。
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韮崎 平和観音

2007-11-06 00:00:02 | 大きな仏さま
(山梨県韮崎市富士見ケ丘)
 窟観音から市民会館を経て、七里岩(八ヶ岳火砕流跡)南端上の観音山公園に立つ、平和観音像に向かう。
 昭和36年(1961)に開眼された、総高18.3m(仏高16.6m)のコンクリート像である。
建立主旨は、「市民の平和と無限の発展、訪れる登山者の無事安全を祈願して、次代を背負う子どもたちを見守る」ということであるが、昭和34年(1959)に発生した、台風7号と15号(伊勢湾台風)による釜無川等の氾濫によって被害を受けた、多数の死者の霊を弔うこと、そしてもう起らないことを願う気持ちも込められているという。
       
 この後は、市民バスに乗って、武田氏発跡地へ向かった。
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寺津城

2007-11-05 00:30:56 | 城郭・城下町
(臥牒城 愛知県西尾市寺津町)
 寺津町には市場、馬場、御屋敷といった地名が残り、その御屋敷には寛政三年(1791)開山の浄土宗雲誠山瑞松寺がある。その一角には「寺津城趾」と刻まれた大正2年建立の石碑と、その背後の高台に稲荷社があり、往時の土塁及び土台の名残である。また、永禄年間廃城後、江戸時代末期までは郭や堀等が残っていたという。
 
 寺津城は、永正七年(1510)に吉良氏臣大河内信綱(信政)が築いた。そして永禄四年(1561)孫の秀綱のとき、吉良義昭守る東条城において松平元康と戦っている。
吉良氏東条城落城後は、徳川家臣となり、秀綱の子正綱は、長沢松平家の養子となって大河内松平氏とも称した。
   
 寺津城が築かれる以前、大河内氏が足利氏臣としてこの地を領し、建久年間(1190-99)大河内氏初代顕綱が寺津八幡社を創建している。また、境内には「大河内氏發跡地」の石碑が建っている。

 八幡社南東、寺津城に隣接するところに、天文三年(1534)大河内信綱の子安心泰公が中興した、浄土宗臨済山金剛院があり、安心泰公の兄信貞以後の大河内氏菩提寺となった。
(関連記事:幡豆郡寺津
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窟観音

2007-11-04 00:00:12 | 石のまもり
(雲岸寺穴観音 山梨県韮崎市)
 甲州街道沿いには、寛正五年(1464)真言宗として開山し、元和元年(1615)曹洞宗に改宗された仏窟山雲岸寺があり、その横には、七里岩(八ヶ岳火砕流跡)の南端崖面を刳り貫かれて造られた石窟がある。
そこには岩屋があり、内部に空海が開眼したという聖観音、弘法大師像、寛文八年(1668)に開眼した千体地蔵等が安置され、更に窟内には多数石仏が安置されている。
        
 窟をくぐり抜けると、斜面に建つ市民会館の下に出る。その上の高台には平和観音像が立っている。
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巨海

2007-11-03 00:00:26 | いにしえの人びと
(愛知県西尾市巨海町)
 「刈宿」の北隣にある集落、巨海(こみ)
原始は海岸線の地であり、縄文時代晩期からの人々の営みがみられる。
大同二年(807)勧請の八剣神社が鎮座し、正中元年(1324)吉良満氏が創建した長寿寺(廃寺)、永禄二年(1559)開基の浄土宗海平山紫雲院瑞用寺等がある。
瑞用寺には、正徳三年(1713)建造の鐘楼門、安永五年(1776)建造の本堂が残っている。また、近くにはベンガラが塗られた「赤地蔵」、巨海氏の居城した「巨海城跡」がある。
 
 続いて寺津地区へ向かう。
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韮崎

2007-11-02 00:00:49 | 街道・宿場町
(山梨県韮崎市)
 甲州街道と東海道興津宿由比宿を結ぶ身延道(西郡道)、そして中山道岩村田宿を結ぶ佐久往還が分かれ、古くからの宿場町であるまちでありながら、思いのほかその風情は少なく、また、やや衰退傾向にある。然しながら富士と八ヶ岳が視界に入り、そして釜無川に沿うこのまちは、武田氏発祥地でもあり、多くの歴史を含んでいる。
 韮崎の地名は、八ヶ岳の火砕流が固まり、七里岩と呼ばれる台地の形状がニラの葉のように見え、その末端に位置することで韮崎と呼ばれるようになったという説がある。
 今回は、雲岸寺窟観音平和観音、そして武田八幡宮等を巡った。
   
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刈宿古屋敷

2007-11-01 00:00:36 | 城郭・城下町

(愛知県西尾市刈宿町)
 長徳の頃(995-98)勅命に背いて流罪となった源満国が、この地に辿り着いて「この地は永住の地にあらず、我が仮の宿なり」と言った言葉が地名になったとも伝えられる。
その満国が村内を馬に乗って回ったとき、石に馬が踏みつけた跡が「馬足石」として残ったという言い伝えのある、旧刈宿村の鎮守熊野神社があり、神社と天沢山西光院常福寺の間には、足利氏族荒川氏及びその家臣が住した刈宿古屋敷が存在したという。

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