flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

函館元町

2012-06-15 00:00:38 | 街道・宿場町

(北海道函館市元町 伝統的建造物群保存地区)
 道南の行政中心地として発展した函館元町は、ハリストス正教会や、旧函館区公会堂旧北海道庁函館支庁庁舎等がある。ペリー来航以来の面影が漂っている。
 (カトリック元町教会)
(チャチャ登りの坂)
(聖ヨハネ教会)

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口明塚南古墳 昭和57年

2012-06-14 00:00:19 | いにしえびとの睡

(馬越紺屋谷古墳群 愛知県豊橋市石巻本町口明塚 1982年再踏)
 馬越長火塚古墳の北西に存在する、耕作によりホールケーキ状になっている高さ1.5m程の円墳である。

(関連記事:口明塚南古墳発掘調査

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京都 南蛮寺跡

2012-06-13 00:00:57 | かみのやしろ

(京都市中京区蛸薬師通室町西入北側)
 南蛮寺とは、天文十八年(1549)のキリスト教伝来から慶長十七年(1612)の禁教令までの期間、日本に建てられた教会堂のことである。
 京都の南蛮寺は、永禄四年(1561)この地に礼拝堂が設けられ、永禄寺と呼ばれたのが始まりである。天正四年(1576)には礼拝堂を再建し、南蛮寺と呼ばれるようになった。然し、天正十五年(1587)豊臣秀吉は宣教師追放令を発し、キリスト教弾圧に転じ、南蛮寺も破却された。

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米原ヤエヤマヤシ群落

2012-06-12 00:00:44 | ふるさとの木々

(沖縄県石垣市米原 国指定天然記念物)
 石垣島と西表島のみに自生するヤシの一種である。石垣島では、於茂登岳北東斜面に多く自生している。
 (ヤエヤマオオタニワタリ)(クワズイモ)
  
(ギランイヌビワ)
  (ヤシの根)
    

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師走の銀座

2012-06-11 00:00:57 | 漂い紀行


(東京都中央区銀座)

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相楽 岡崎

2012-06-10 00:00:35 | 漂い紀行

(京都府木津川市加茂町岡崎)
 木津川恭仁宮(山城国分寺)の間にある集落である。かつては繁栄していたであろういにしえの記憶が蘇る地である。
(文化坂)
     

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へんろ道 窪野

2012-06-09 00:00:01 | 街道・宿場町

(愛媛県松山市窪野町)
 松山平野の南東、重信川を越えると、久万に達する山並みが迫ってくる。この辺りには四十六番札所浄瑠璃寺や河野氏縁の正八幡社一遍窪寺遺跡がある。
       (一畑薬師如来) 

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函館ハリストス正教会

2012-06-08 00:00:49 | かみのやしろ

(主の復活大聖堂 北海道函館市元町 国指定重要文化財)
 万延二年(1861)日本最初のハリストス正教会として創立した。明治40年(1907)の函館大火によって聖堂を失うが、大正5年(1916)河村伊蔵によって石造及び煉瓦造で再建されている。
     

(関連記事:東京復活大聖堂 豊橋ハリストス正教昇天教会マトフェイ聖堂

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信玄塚

2012-06-07 00:00:24 | いにしえびとの睡

(愛知県新城市竹広字信玄原 市指定史跡 1982年9月再訪)
 天正三年(1575)長篠の戦いによって戦死した者を竹広の丘陵に葬った。武田軍の死者の塚を大塚、織田徳川軍の死者の塚を小塚といい、それぞれに松を植えて大松、小松と呼んだ。

(首洗池)
(大塚と倒れた大松)
(大塚 空道作 丸彫地蔵像)
(設楽貞政供養塔 承応二年)
(空道作 閻魔像)
 
(小塚 昨年枯死した小松跡に建つ空道作 聖観音像)

(関連記事:火おんどり採火式 信玄原火おんどり 設楽原竹広 柳田前 大宮前 設楽原決戦場まつり

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本能寺跡

2012-06-06 00:00:19 | ほとけのいおり

(京都市中京区小川通蛸薬師元本能寺町)
 応永二十二年(1415)「本応寺」として開基したのが始まりである。 応永二十五年(1418)一旦廃寺され、永享五年(1433)足利直義の子、如意王丸から土地の寄進を受けて再建し、寺号を「本能寺」と改めた。
 
 天正十年(1582)本能寺の変が起き、織田信長は最期をこの地で迎えた。その後、豊臣秀吉により寺は現在地(中京区寺町通御池下ル下本能寺前町)に移転されている。

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山原

2012-06-05 00:00:56 | 漂い紀行

(ヤマバレ 沖縄県石垣市川平)
 かつては山原村であったこの地は、近年は定年後の本土移住者が増加し「リトルトーキョー」と呼ばれている。
 
 (おーりとーり:いらっしゃい)

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江戸城本丸跡

2012-06-04 00:00:37 | 城郭・城下町

(東京都千代田区千代田 国指定特別史跡)
 江戸城の辺りに最初に城が築かれたのは、江戸重継が平安時代末期に館を置いたのが始まりである。その後、本格的な城郭としては、長禄元年(1457)上杉氏臣太田道灌(どうかん)が築いている。徳川時代となり、城郭が拡大されたが、明暦の大火により五層の天守を焼失し、以後再建されることはなかった。都が東京に移り、皇室の宮城が江戸城跡に移ると、本丸跡は皇居東御苑となった。
(桜田巽櫓)
     (同心番所)
   (百人番所)
     (大番所)
(天守台)
        (富士見櫓)
             (平川門)
 

(関連記事:江戸城大手門 桜田巽櫓 西丸 桜田門

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もっさりハウス

2012-06-03 18:00:11 | まちの違和感


(京都府木津川市加茂町での光景)

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木津川 加茂

2012-06-03 00:00:22 | 水のほとり

(京都府木津川市)
 下流の大山崎町で桂川と合流し淀川となる木津川は、鎌倉時代から江戸時代中期まで、舟運で栄えた。以後この地は、奈良と伊賀信楽方面を結ぶ街道に役割を渡した。
  (新恭仁大橋) 
(旧恭仁大橋の親柱)

(関連記事:相楽加茂

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海岸山岩屋寺

2012-06-02 00:00:50 | 孝霊天皇流族関係記事

(愛媛県上浮穴郡久万高原町七鳥 四国八十八ヶ所巡礼第四十五番札所)
 久万から旧美川村に向かって進むと更に山深くなっていく。感情の涙が機能しにくい私ではあるが、何故か次第に目頭が熱くなり、何処か懐かしいような光景が広がり始めた。辺りは一見砕石の山のような山が広がって見えるが、近づくと自然の岩の露呈であることが分かる。その所々をくり抜き、修行の場としたようである。天気は大雨の予報であったが、訪れたときは時折晴れ間を見せていた。
     
 岩が露出する山の斜面には真言宗の岩屋寺がある。弘仁六年(815)空海が開いたと伝わる。そして、一遍智真もこの岩屋寺に参籠し、仏の道を悟ろうとした。
   
 明治31年(1898)境内の伽藍を焼失。現存する堂宇は大師堂も含めこのとき以後のものである。
     (国重文 大師堂)
    
 岩屋寺の背後には、岩の下を通る遍路道が続く。
        

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