(舞鶴城 佐賀県唐津市)
文禄五年(1595)豊臣秀吉臣寺沢広高が肥前唐津に封ぜられ、慶長五年(1600)関ヶ原の戦いでの功により、肥後天草四万石を合わせ十二万三千石の大名となった。築城の際、東唐津側と地続きであった主郭となる満島山の裾を切削し、松浦川をそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更、旧流路の埋め立てをして、川岸を利用し柳川堀、肥後堀等を築いた。 肥後堀石垣
二の門堀
広高の子堅高(かたたか)は、自領地の天草富岡城が島原の乱の際に一揆側に攻められ、その責任を取らされる形で天草領四万石を没収された。堅高は、正保四年(1647)に江戸藩邸で自害し、嗣子がなかったために寺沢家は断絶、改易となった。一時天領となったが、慶安二年(1649)播磨明石大久保忠職が城主となった。然し、延宝六年(1678)大久保氏が下総佐倉に移封し、代わって同地より大給松平乗久が入城。元禄四年(1691)大給松平氏が志摩鳥羽に移封、同地より土井利益が入城。宝暦十二年(1762)土井氏が下総古河に移封し、三河岡崎より水野忠任が入城。文化十四年(1817)水野忠邦が遠江浜松に移封し、陸奥棚倉より小笠原長昌が入城、以後廃藩まで小笠原氏の居城となった。 石垣の修繕工事
高島
松浦川・虹の松原・鏡山
明治10年(1877)舞鶴公園として整備、開放され、昭和41年(1966)五層の模擬天守を築造、門、櫓も再建された。平成元年(1989)肥後堀と石垣が復元され、平成4年(1992)には二の丸跡に「時の太鼓」を復元。更に平成5年(1993)三の丸辰巳櫓が復元された。 二の門堀 旧松浦川口
柳堀 三の丸辰巳櫓
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