(富山地方鉄道市内軌道線)
公共交通、特に路面電車をもって推進活動をしている富山県。一時は衰退しながらも、現在は富山港線と接続、延伸構想がある富山市内線を訪れた。富山市での路面電車の歴史は、大正2年(1913)富山電気軌道として始まり、大正9年(1920)から昭和18年(1943)までは市営であった。その後は富山地方鉄道の軌道線として、最盛期には11kmの軌道線と、鉄道線の射水線、笹津線と乗り入れし、計38kmのネットワークを有していたが、モータリゼーションにより6.4kmまで縮小した。然し、平成18年以降になって、環境問題やコンパクトシティ構想から見直され始め、環状線復活などで1km延伸された。更に富山駅高架化を待って、富山港線(富山ライトレール)との相互乗り入れが予定されている。
「路面電車は街の顔、街の足」の看板をつけた7000形 荒町電停
桜橋電停
電気ビル前電停
環状線セントラム9000形
LoopLine 富山駅前
(ひろさきじょう 鷹岡城 青森県弘前市 国指定史跡 重要文化財 日本100名城4番)
弘前城は津軽為信によって、慶長八年(1603)に築城が開始され、それまでの堀越城から鷹岡(現在地)に移ったのが始まりである。 慶長十六年(1611)為信三男信枚(のぶひら)の代に城郭が完成した。然しながら、寛永四年(1627) 落雷により五層五階の天守を焼失し、翌年、鷹岡の地名を信枚の帰依する天海大僧正が名付けた弘前に改め、城名も弘前城となっている。これは信枚の伯母の祟りからだと考えられていたという。また、信枚と為信嫡男信建の子熊千代との継承問題(津軽騒動)が起きている。 文化七年(1810)九代寧親のとき、規模を縮小した辰巳櫓名目の天守(現存の三層櫓)築造された。廃藩後は一時、東北鎮台の分営が置かれが、明治27年(1894) 藩主であった津軽家が城跡を市民公園として開放した。
(岩木山) (御金蔵跡)
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(愛知県新城市竹広字断上 県指定史跡 1983年再踏査)
設楽原の戦いの際、徳川家康が物見台に使った10号墳の南に位置する古墳であり、弾正山(断上山)丘陵の10基からなる古墳群の一つである。9号墳は粕塚(かすづか:酒粕の意)と呼ばれ、直径17m,高さ3mの古式(前期古墳)円墳である。
伝説 粕塚
昔、この辺りに旭長者が住んでいた。毎年春の祭りになると、長者の家で造った酒が振舞われ、遠くの村々からも人々が長者の徳を慕って訪れたという。この長者の家で造られた酒を搾った粕は、一定の場所に埋められて、それが積み重なったのがこの粕塚だという。
(こがいくにじんじゃ 福島県会津若松市蚕養町 旧式内社・県社)
弘仁四年(811)の創建とされ、保食大神(うけもちのおおかみ)を祀り、平安時代の記録、「延喜式神名帳」に名が見える。戦国時代の戦乱で社殿を焼失し、保科正之が再建している。文化四年(1807)再び社殿を焼失したが、文政二年(1819)若松藩主松平容敬(かたたか)によって再建され、現在に至っている。社名が示す通り、養蚕守護の神社である。
(静岡県浜名郡三ヶ日町福長 1983年参拝)
貞観十七年(875)大福寺の東方8kmの扇山に幡教寺(ばんきょうじ)として天台僧教待が創建したのが始まりという。承元元年(1207)明性阿闍梨によって現在地に移り、真言宗大福寺となった。
(福島県会津若松市栄町)
鶴ヶ城から市街地へ進むと、瑞雲山興徳寺の境内に「会津若松」を築いた蒲生氏郷の墓がある。空・風・火・水・地と刻まれた五輪塔は、京都大徳寺にある氏郷の墓から分骨あるいは遺髪を移し、子の秀行が建立したものという。
(奈良市高畑町)
この日は奈良国立博物館の正倉院展内覧会に招待されたため平城入りした。宿泊の手配は大乗院跡に建つ奈良ホテルとなり、夕食はホール三笠でコース「高円」を食して、古都の風情を感じた。
観覧後に振舞われたぜんざい
今回の展示は、工芸である螺鈿紫壇の琵琶や瑠璃杯のほか、近年発見された最古の戸籍とされる御野国山方郡三井田里(美濃国山県郡三田洞)の戸籍、初陳列の信者を僧侶へ推薦するという文書「優婆塞貢進文」などがあった。
大乗院は寛治元年(1081)藤原政兼の子で僧となった隆禅が、現在の奈良県庁付近に興福寺の門跡寺院(皇族・貴族が住職を務める寺院)として創建したのが始まりという。治承四年(1180)平重衡(たいらのしげひら)の南都焼討によって現在の跡地に移転した。然し、宝徳三年(1451)の徳政一揆(民衆の政治的要求活動)により焼失している。その翌年、一条兼良の子、尋尊が再興し、足利義政の命を受けた善阿弥により作庭が始められた。
国指定名勝 大乗院庭園
大乗院庭園と奈良ホテル
明治時代に入ると九条尚忠の子、隆芳が華族松園尚嘉となって大乗院は売却された。そのため敷地は飛鳥小学校、奈良ホテルとなった。
興福寺五重塔を眺めながらの朝食
奈良ホテルは都ホテル創始者の西村仁兵衛、奈良県、鉄道院によって、明治42年(1909)に開業した、総檜造二階建ての宿泊施設であり、設計は建築家の辰野金吾、片岡安である。当初の宿泊者原則は、高等官または資本金一定額以上の会社重役であるとし、また、外国王族の国賓、皇族などの宿泊が多いため、高級調度品・食器の使用、セントラルヒーティングの導入、上村松園、川合玉堂、前田青邨、横山大観などの画家に館内を飾る絵画を依頼し、迎賓館に準じた調度や設備となっている。
富山城へは十二年振りに訪れる。以前訪れたときには、昭和29年(1954)富山産業大博覧会記念構築物として築造された模擬天守も老朽化が感じられたが、その後に行われた耐震補強と国登録有形文化財化によって生まれ変わっていた。
製鉄、新田開発、製薬を奨励した、二代正甫の像
富山城は室町時代に、畠山氏臣神保長職(ながもと)によって築城された。然し、永禄三年(1560)越後上杉謙信により神保氏は富山城を追われ、富山城は上杉氏と一向一揆の戦いの拠点となった。天正六年(1578)長職の子神保長住が織田信長の臣になることで富山城に入城することになるが、天正九年(1581)長住は上杉方に内応した家臣に背か失脚し、代わって五十四万石で佐々成政が入った。
千歳御門 嘉永二年
関ヶ原以後、越中全体が与えられた前田利長は、城郭の改修を行い金沢城から移り住んで隠居城とした。然し、慶長十四年(1609)建物の大部分を焼失したため、高岡城を築き移り住み、富山城には家臣の津田義忠が城代として入った。寛永十六年(1639)加賀藩第三代藩主前田利常の次男利次に十万石を与えて分家させ富山藩を興す。万治四年(1661)再城郭及び城下町を改修し、前田氏十三代(正甫、利興、利隆、利幸、和興、利久、利謙、利幹、利保、利友、利聲、利同)の居城として明治維新を迎えた。
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