(宮城県白石市)
蔵王連峰東側、福島に接するこのまちは片倉一万八千石の城下町であり、奥州街道(仙台道)の宿場としても栄えた。
城来路を通って白石城へ向かった。
(京都市伏見区淀本町)
宇治川、木津川、桂川が合流する要害の地に、元和九年(1623)松平定綱によって二条城、伏見城の材料を用いて築城されたという。寛永十年(1633)定綱は美濃大垣へ移封され、代わって下総古河より永井尚政が十万石で入城し、城下町の整備が行われた。寛文九年(1669)尚政の子尚征のとき丹後宮津へ移封、代わって伊勢亀山より石川憲之が入城した。宝永八年(1711)石川総慶のとき、備中松山に移封。代わって美濃加納よりは戸田(松平)光熈(みつひろ)が入る。享保二年(1717)光慈(みつちか)のとき志摩鳥羽に移封。代わって伊勢亀山より松平乗邑(のりさと)が六万石で入城した。その乗邑も享保八年(1723)下総佐倉に転じ、その後は同所から河野氏族である稲葉正知が十万二千石で城主となり、正任、正恒、正親、正益(よし)、正弘、正(のぶ)、正備(なり)、正発(はる)、正守、正誼(よし)、正邦で廃藩となった。また、宝暦六年(1756)の落雷により天守や建物の大半が焼失している。鳥羽伏見の戦いの際には、旧幕府軍が淀城に籠城しようとするが、新政府軍側に寝返った当藩に拒まれている。現在城跡は、京阪線及び市街地化によって著しく往時の風貌を変えているが、淀駅付近立体交差化事業に伴って、城跡及び公園の整備が計画されている。
本丸跡に鎮座する、淀城稲葉氏初代稲葉佐渡守越智正成を祀る稲葉神社 穴蔵式天守台跡
本丸跡の明治天皇御駐蹕址(大坂行幸休憩所跡)
(宮城県宮城郡松島町 日本三景 国指定名勝)
瑞巌寺から上がった高台から、この高台にやって来た。そこには、震災により休業となっている茶店があったが、振り返ってみると、そこには句を認めたくなることを頷ける光景が広がっていた。この場所には次のような伝説がある。西行(僧・歌人 俗名佐藤義清 1118-90)が武士であった頃、通じた官女に「あこぎである」とたしなめられ、その意を解せず出家した。そして、この地を訪れ高台の松の傍らで休んでいると、松島明神である老人が牛に草を食わせていた。老人は牛が飽きもせず草を食べているので、「あこぎである」と叱った。西行はその老人に「あこぎ」の意味を尋ねた。老人は「伊勢の海あこぎが浦にひく網も、たび重なればあらわれやせん」と古い和歌を引いてそれを答えたが、西行はそれが理解できず、恥じてここから引き返したという。 また、西行が「月にそふ桂男のかよひ来てすすきはらむは誰が子なるらん」と句を詠んでいると山王権現の化身である鎌を持った童子が現れ、「雨もふり霞もかかり霧もふりてはらむすすきは誰が子なるらん」と詠んだ。童子の仕事は何かと西行は問うと、「冬ほきて夏枯れ草を刈りに行く」と童子は答えたが、西行はその意味が分からなかった。そして童子は、「才人が多い霊場松島を訪れると、恥をさらすであろう」と諭したので、西行は恐れてこの地から去ったという。故に西行戻しの松と呼ばれるようになったということである。
震災で崩落した箇所
(京都市伏見区淀本町)
京街道(大坂街道・通称東海道五十七次)の宿場町として栄えた。この地で合流する宇治川と桂川は、淀川となって大阪湾に向かって流れて行く。淀城跡に程近い商店街では、懐かしい生活感が漂っていた。
(静岡県湖西市鷲津 1983年6月23日)
法華宗本興寺は、永徳 三年(1383)僧日乗が開山し、中世には今川氏や鵜殿氏によって保護された。永禄十一年(1568)徳川家康の遠江侵攻が始まり、本興寺も戦乱に翻弄される危機があったが、時の住職日梅が家康の側室であった西郡局の近親であったことから難を逃れたという。そして、後に本興寺は家康から十万石の格式を与えられ、葵の紋の使用を許された。寛永十九年(1642)には 徳川家光から六十三石の朱印を受け、以降、本興寺の住職は将軍の代替わりの際に江戸城内白書院においての将軍への謁見を許されている。
茅葺の本堂は国の重要文化財に指定されており、山門は延宝二年(1674)老中久世広之により吉田城大手門を移築したものである。
(関連記事:本興寺平成十七年)
(福島県耶麻郡猪苗代町三ツ和 福島県登録博物館第1号)
野口英世は明治9年(1876)猪苗代の農家に生まれ、子どもの頃の名前は清作といった。一歳のとき囲炉裏に落ち、左手に火傷を負って不自由となる。そのため、周囲からの奨めもあって、次第に勉学に励むようになる。その後、会津若松の医師によって左手の手術を受け、日常生活に差し支えのない程度に回復した。そのときの感謝の気持ちもあって、医学の道に進み医師免許を取得、細菌学者となった。晩年、アフリカにおいて黄熱病の研究をするも、昭和3年(1928)自身がその黄熱病で命を奪われ、五十一歳の生涯を閉じている。
(文政六年建築)
(沖縄県宮古島市上野)
空港から南東へ向かい旧上野村に差し掛かる。昭和23年に下地村から分村し、平成17年に宮古島市となった地である。下地に対して、上野というだけあって土地は僅かに周辺よりも高い。
石灰地質が露となった圃場整備