(群馬県吾妻郡嬬恋村 上信越高原国立公園 1998年4月30日)
標高2568mの活火山、浅間山の北東側には、天明三年(1783)の噴火の際に流れ出て凝固した溶岩が一帯に広がっている。その一角には、西武創業者堤康次郎が建立した浅間山観音堂が建つ。
(愛知県宝飯郡一宮町東上字炭焼平 県指定史跡 1983年再踏査)
本宮山から伸びる幾つもの舌状台地の一つ、炭焼平にある40基からなる古墳群である。4号墳は唯一の帆立貝式前方後円墳で、全長約35m,横穴式石室を持ち、6世紀末から7世紀初の後期古墳である。
2002年2月4日
奥壁
(京都府木津川市加茂町岩船三大 当尾磨崖仏文化財環境保全地区 県指定有形文化財)
岩船寺の下方には、笑みを浮かべたような表情の阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩が彫られた岩があり、永仁七年(1299)二月十五日 願主岩船寺住僧 大工行末の刻字がある。その笑い仏の前には、仏躰のほとんどが埋もれている「眠り仏」の地蔵菩薩がある。
(曹洞宗円福山妙厳寺 豊川閣 愛知県豊川市豊川町)
この日は豊川海軍工廠被爆者慰霊祭と、み魂まつりが行われた。
外苑供養塔
千本幟
万堂(禅堂)文久三年
宝雲殿(祠堂殿)昭和41年
通天廊と庭園
総欅造本殿 昭和5年竣工
法堂 文化十年
(愛知県豊川市牛久保町 1983年撮影)
享禄二年(1529)一色城主牧野成勝の築城。 永禄四年(1561)松平元康(徳川家康)は今川勢力下の守りが手薄になっている牛久保城を攻めた。このとき三代牧野成定は、今川義元により西尾城を守っており、持城の牛久保城は臣下の稲垣重宗、真木定安が守っていた。然し、稲垣重宗は豊川対岸の八名郡賀茂村(豊橋市賀茂町)におり、城は真木氏一族しかおらず、同氏により戦いを持ち堪え討死しながらも、知らせを聞いた稲垣重宗が参戦し、元康勢は退散していった。このとき以降、牛久保城は重要視されるようになり、今川勢と松平勢との攻防の拠点の一つとなるが、永禄九年(1566)度重なる攻勢により松平勢の傘下となった。天正十八年(1590)四代牧野康成は徳川家康の関東移封に伴って上野国勢多郡大胡に二万石で移封した。牛久保城は吉田城の支城となり、池田輝政臣の荒尾成久が城主となった。慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い以後は天領となり、城は縮小し代官所としての機能となったが、元禄十三年(1700)に廃城となっている。付近は飯田線及び住宅地となり、遺構は一切残っていないが、河岸段丘縁端の眺望と城跡、大手、城下の小字が往時を想像する材料である。
(関連記事:牧野成定廟)
初めての東国行夜行バスで渋谷へ。新東名を通り、掛川と足柄で休憩となった。下車したマークシティバス停から、今度は羽田空港連絡バスに乗り換え、通勤時間前の渋谷と湾岸を眺めながら二年振りの羽田空港に到着。初めての羽田離陸、ADO機利用であり、搭乗の際に現地の霧の状況で十勝、新千歳への変更の可能性がある報告があった。道東の太平洋側はこの時期、霧の都となるのである。B737の小型機で羽田を離陸。頭上のモニターユニットが、ずれてはみ出している状態や、他社同型機では聞かれないような航行中の機械音等、若干の不安要素はありながらも、窓の外に見える、雲の上に顔を出した富士山を眺めながら北へ向かった。
(京都府木津川市加茂町東小下井手口 当尾磨崖仏文化財環境保全地区)
唐臼(からうす・からす)の壺と呼ばれる15cm程の丸穴の開いた石(礎石状のもの)の傍には、阿弥陀如来と地蔵菩薩が彫られた岩がある。それぞれに康永二年(1343)の刻字があり、阿弥陀如来の右側には線刻燈籠があって、火袋に燈明が入れられるようになっている。
「唐臼の壷」
(同和鉱業 小坂鉄道 秋田県大館市)
奥羽線大館駅前には、線路だけとなった小坂製錬の駅の跡がある。明治41年(1908)小坂鉱山から産出される銅、亜鉛、鉛を搬出するために、軽便鉄道として築造されたのが始まりである。昭和37年(1962)軌間が1067㎜化され、平成2年に鉱山が閉山した後は、主に小坂製錬所で製造される濃硫酸を、秋田市にある秋田製錬飯島製錬所まで輸送する路線となった。平成6年には旅客営業が廃止され、平成20年にはトラック輸送に転換されたため全面廃止となった。