(愛知県岡崎市明大寺町川端 2005年2月20日)
ユニー東岡崎店開業には、同じ通りに存在した関連三店舗の経緯がある。昭和38年(1963)エコー百貨店が先ず開業したが、屋号はそのままで間もなくユニーの前身の一つである、ほていや(呉服商)の運営となった。昭和45年(1970)現在地に現在の建物、ユニー東岡崎ショッピングセンター(RC6階地下1階 延床面積5,024m2)を開業させ、エコー百貨店は一旦、合併により誕生したユニーの岡崎店となり、閉店の昭和48年(1973)までに段階的に東岡崎店に統合された。(エコー百貨店の5階建ビルは暫く閉鎖後大和證券岡崎支店に転用改修)また、ほていや岡崎店は昭和38年(1963)開業の富士ビル(RC5階地下1階 延床面積3,300m2)にメインテナントとして入居していたが、ユニー合併後及び東岡崎店開業時にユニー東岡崎ハウジングセンターとなり、昭和50年(1975)までに東岡崎店に統合されている。その後は東岡崎駅前の主力商業施設を東岡崎店が担ってきたが、市街地空洞化により次第に集客力が低下。平成14年に開業したアピタ岡崎北店にシフトし、平成17年2月をもって東岡崎店は閉店した。跡地は同ユニーグループが運営するマンションが建設される予定になっている。(2005年時点)
(御霊神社 神奈川県鎌倉市坂ノ下 旧村社)
相模平氏である大庭氏、梶原氏、鎌倉氏、長尾氏、村岡氏の五氏五霊を祀ったことから、五霊→御霊(ごりょう)神社になったとされる。その内の一柱である鎌倉権五郎景政が後に主祭神となり、権五郎神社と呼ばれるようになった。景政の伝承に次のものがある。後三年の役(永保三年:1083)に金沢の柵(秋田県横手市)を攻めた際、鳥海三郎という者に右眼に矢を射ち込まれた。然し彼は怯まず、その矢を抜かずして反撃し相手を倒してしまった。そして味方の陣に帰り兜を取り「景政手負いたり」と発し倒れた。そこで味方の三浦の平太為次という武士が景政の眼に刺さった矢を抜こうと貫(つらぬき:毛皮で造った靴)を履いたまま景政の面に足をかけた。すると景政は「弓矢に当たって死するは武士の本望だ。なのに土足をもって面を踏むとは何事ぞ」と刀を構えてその無礼を叱咤した。為次は驚いてその無礼を謝したという。
八丈千鳥
庚申塔・青面金剛像
御嶽山神社・八海山神社・三笠山神社・白川神社・長寄神社
(愛知県豊橋市中野町)
王ヶ崎東公園には、古い門柱と哨舎が残されている。 これは、この地にあった騎兵隊第二十六聯隊の遺構を公園開設時に移設したものである。第二十六聯隊は明治42年(1909)の駐屯時代から昭和20年(1945)の終戦までに約17,500名の将兵が在籍し、230回の戦闘に従事している。また、同所にある記念碑の中には軍旗の灰と軍馬の鬣(たてがみ)が納められている。
(愛知県豊田市平戸橋町 1990年8月25日)
矢作川の中流に築造された、昭和4年(1929)竣工の多目的ダム(越流型直線重力式コンクリートダム)及び水路式発電所(最大出力9,200kw)である。また、枝下(しだれ)用水の取水口ともなっており、豊田市、知立市、三好町の一部が受益地域となっている。辺りは豊田市民芸館から連なる公園でもあり、行楽客が行き交う姿を多く目にする。
枝下用水
(熊本市中央区桜町)
熊本駅より利用者の多いとされる交通センターであるが、訪れる度に寂れているように感じるのは私だけではないだろう。再開発を前提とする商業の撤退や、県民百貨店閉店も相俟って、斜陽感が否めない。昭和44年(1969)熊本県庁跡地に開業した交通センターは、それまでバス事業者4社が周辺にそれぞれバス停を設けていたものを統合し、発着の利便性を図ったものである。隣接の岩田屋伊勢丹(RC造9階地下1階、延床面積48,303m2)が開業する昭和48年(1973)までに整備が完了した。然し当初から百貨店の業績は順調ではなく、岩田屋伊勢丹は販売不振により平成5年に伊勢丹が撤退し、単体での熊本岩田屋となったが、平成12年に(株)熊本岩田屋を清算して久留米岩田屋熊本支店となった。然しながら岩田屋自体が債務超過に陥ったため、平成15年熊本岩田屋は閉店した。同年、新たに県民百貨店が設立され、阪神百貨店と業務提携を結んで、店名を「くまもと阪神」とし、ようやく黒字転換を果たした。平成23年には阪神との業務提携は終了し、店名も県民百貨店となったが、桜町地区再開発事業が持ち上がり、交通センターや県民百貨店の一時的移転が必要になった。然し移転先条件が噛み合わず、県民百貨店は廃業を決め、平成27年をもって42年の幕を閉じた。
(指甚 愛知県刈谷市熊野町 2004年5月30日)
かつて東海地方のCMで流れていた「おばあちゃんも お母さんも そして私も決めました」婚礼家具はやっぱり「さしじん」のフレーズを覚えている人も多いだろう。この地方の婚礼家具の力の入れようは他の地域を上回り、バブル期頃まで安定した売り上げであったが、その後は販売不振が続き、平成14年に破綻した。
(愛知県豊橋市)
盛夏の豊橋を漫ろ歩く。 西駅界隈
豊橋駅南口
旧ユニー豊橋店
ユニー→ハートスタッフ→アピタ→フェイス
ユニー時代からのエスカレーター
取り外される歩道アーケード
新豊橋駅
南栄駅前田原街道
中野町
柳生川富田橋
(愛知県岡崎市細川町長原 1990年8月20日踏査)
古村積神社境内に古墳の痕跡がある。神社造営のための削平と昭和56年、60年の2回の発掘調査によって一見判別ができない程の状態であるが、帆立貝式前方後円墳の後円部が一部残されていて、付近からは須恵質の円筒・形象埴輪片を散見することができる。調査によって全長28.5m,高さ2.5mと実測され、また周濠を持ち、出土する埴輪から6世紀前半の築造と推定されている。
(関連記事:古村積神社古墳発掘調査)
(愛媛県今治市旭町)
近隣の泉川通りにあった四国タオル工業組合事務所が手狭になったため、昭和43年(1968)現在地にRC造6階、延床面積4,077m2のタオル会館を築造し、その内の半分を組合事務所及び貸オフィスとして、もう半分を四国グランドホテルとして開業したものである。我が家も墓参の際に贔屓にしていたホテルであったが、その後の利用客減少で運営が転々とし、館内の喫茶や中華料理店「五番閣」も撤退した。組合事務所は平成3年、今治港に程近い東洋紡跡地に開館したテクスポート今治に移転し、移転後は貸オフィスの面積が拡大された。然しながら老朽化を理由に平成25年8月末をもって閉館し、間もなく解体された。(写真は平成16年5月6日)
(京都市上京区今出川通烏丸東入玄武町・相国寺門前町 国指定重要文化財)
薩摩藩邸であった京都御苑と相国寺の間のこの場所に、明治8年(1875)新島襄により同志社英学校が開設されたのが始まりである。その後段階的に各施設が建設された。
彰栄館 明治17年(1884)アメリカ人牧師・教師・建築家ダニエル・クロスビー・グリーン設計 煉瓦造2階塔屋付
礼拝堂 明治19年(1886) ダニエル・クロスビー・グリーン設計 煉瓦造
ハリス理化学館 明治23年(1890)イギリス人建築家アレクサンダー・ネルソン・ハンセルの設計 煉瓦造2階建
クラーク記念館(神学館)明治26年(1893)ドイツ人建築家ヒャルト・ゼール設計 煉瓦造3階塔屋付 ネオ・ゴシック様式
有終館(書籍館)明治20年(1891)ダニエル・クロスビー・グリーン設計 煉瓦造2階地下1階
致遠館(教室) 大正5年(1916)徳富蘇峰銘
アーモスト館(学生寮)昭和7年(1932)ヴォーリズ建築事務所設計 RC造2階建 ニューイングランド・ジョージアン様式
(愛知県半田市有楽町・知多郡武豊町中蓮 2003年5月17日)
昭和50年(1975)この地にあった大信紡績を引き継ぐ形で、中部旭紡績名古屋工場(千種区猪高町猪子、跡地はユニーサンテラス千代田橋店)が移転したものである。その後紡績は斜陽産業となり、工場を閉鎖解体してサンテラス千代田橋店と同様に不動産事業に転換し、平成7年にジャスコ半田店となった。然し、将来の大型モール化拡張用地として予定されている大信紡績時代に建てられた社員寮と、工場と社員寮を繋いでいた階段棟はまだ残されている。(2003年時点) 階段棟