(名古屋市東区東桜 2006年2月10日)
ビルの谷間にあるこの神社は、社伝によると、応永五年(1398)郷士前山源太夫が駿河国大宮(静岡県富士宮市)浅間神社から勧請したのが始まりという。また、天正十年(1582)には徳川家康が参詣したと伝わる。その後、名古屋城普請大名の一人である浅野幸長の普請小屋築造により幅下(西区)に遷座され、その後現存する冨士浅間神社となったが、寛政十二年(1800)現在の元宮の地に再び冨士神社として還宮している。
(名古屋市守山区幸心字屋敷 2006年2月10日)
曹洞宗松栄山常雲寺の境内には庚申堂がある。付近の地名の幸心は、庚申が由来とされている。小堂の前には青面金剛の使いである三猿が狛犬のように二躰立つが、「見ざる」の腹のところに小さな「言わざる」が彫られ、合わせて三猿を成している。
(名古屋市守山区幸心 2006年2月10日)
矢田川の南に鎮座する間黒神社は、鎌倉時代創建とされ、社名は天孫降臨の高天原(たかまがはら)の「ま」を引用して名付けられ、「たか」は矢田川下流の高牟神社(千種区今池)名に用いられたという。戦国時代には城が構えられたとされ、明治23年(1890)には境内を横切る排水路の古川(神戸川)が掘削された。
(静岡県富士市鈴川西町 2006年12月6日)
富士と港の見える公園の高台に仏舎利塔がある。昭和56年(1981)建築家大岡實が設計したRC造の平和の塔であり、スリランカのアヌラダプーラの小塔を基準に設計し、台座に連弁を付加したものである。
東海道吉原宿の一角に日子番能瓊瓊杵命(ひこほのににぎのみこと)と菅原道真を祀る神社がある。当初は天の香久山と呼ばれる駿河湾沿いの砂丘にあったが、度々砂を押し上げられたため、近隣の鈴川に遷座したという。延宝八年(1680)に至り、大風高波によって被害を受け、天和ニ年(1682)現在地に遷座した。然し、宝永五年(1708)火災によって焼失し、寛政元年(1789)現存の社殿が造営された。
(えだ 横浜市青葉区荏田)
大山街道(矢倉沢往還)と鎌倉街道が通るこの地は、田園都市開発が行われながらも田畑が多く残り、新旧混在の地である。また、中世は源氏臣江田氏が統治し、城跡が残存する。
荏田城跡
(旧所在地:静岡県富士市平垣)
代官を務めた松永家の屋敷は、安政四年(1857)に建てられ、江戸末期には旗本日向小伝太の陣屋が屋敷内に置かれて小塚陣屋と呼ばれた。明治元年(1868)には明治天皇東幸にあたり小休の御座所となっている。
(東京都台東区浅草)
浅草神社例大祭である三社祭は、浅草寺を開いた土師真中知(はじのあたいなかとも)、檜前浜成(ひのくまはまなり)、檜前武成(ひのくまたけなり)をそれぞれの末裔が正和元年(1312)浅草寺の境内に三社明神(1872-浅草神社)として祀り、海中から観音像を引き上げた伝説に基づき船祭が始められたのが三社祭の起源とされる。
(静岡県富士市 2006年12月3日)
市内大淵に存在した、直径16m,高さ3.5m,6世紀後半の円墳である。昭和54年(1979)西富士道路築造に伴い発掘調査が行われ、副葬品として馬具、直刀、金銅製の鈴が出土した。
東平遺跡は、東名高速富士インター付近に位置した奈良、平安時代初期に営まれた遺跡であり、発掘調査から、富士郡衙(役所)とみられる遺構や遺物が検出されている。
(旧所在地:静岡県富士市東本通 2006年12月3日)
寛政二年(1790)に建立されたこの一字一石経王塔は、願いが込められた経文を未来永劫長く残し伝えるため、河原の石に経文を書き地中に埋め、その上に石塔を建てたものである。