遅くに開いた夕刊をみていて、歌人の「河野裕子さん死去」の記事に驚かされた。昨日12日午後8時7分乳がんのために亡くなったとあった。64歳。
2年間、近現代歌に詠まれた京都・滋賀の地を歌人の永田和宏さんと河野さん夫妻がいざなう「京都歌枕」が新聞に連載されてきて、7月15日で終わったばかりだった。その後、連載を振り返ってお二人が語り合う19・20日の2日間の記事でもって閉じられた。
30年余り前、両隣の家の灯りが壁の隙間から見える三軒長屋の真ん中の家で、年中やぐらコタツを置いて二人は差し向かいで仕事をしていたという。3人の若い歌人がやってきて夜遅くまで議論しあい泊まっていった。その晩のことを一人が「永田和宏仁和寺の家」という固有名詞を下の句に据えて詠んだ一首が、最終回の掲出歌だった。
ここで暮らした子どもたちの幼年時代は深い刻みとして記憶に残ると語られている。
「私にとってこの連載で一番大きな意味は、あなたと一緒に時間を共有したことだったと思う。どこへ行くにも必ず一緒に行った。昔、浄瑠璃寺を歩いた、そして何十年たって同じ道のりを歩く。かつてあった時間と、これからどれだけの時間があるのだろうかという、短い人生で歳月が持つあじわい。人生、時間というものを感じさせられました。」
こう振り返られた河野さんだが、十年前に乳がんという病名を知らされていた。
その秋の日、澄んできらめく鴨川の流れを見つめ泣きながら「私は生きよう」と思ったと綴られた6月11日。しみじみとこの世の美しさなつかし、人生の短さを思われていた。
読みながら涙で文字がにじんだ朝。発せられたことばの持つ優しさ強さ、真摯さが身に染む素敵な女性だったなと思う。
生きている今、今生こそを存分に生きろよ~
お盆の初日、そんな声が聞こえそうな気がしても不思議ではないかな…
2年間、近現代歌に詠まれた京都・滋賀の地を歌人の永田和宏さんと河野さん夫妻がいざなう「京都歌枕」が新聞に連載されてきて、7月15日で終わったばかりだった。その後、連載を振り返ってお二人が語り合う19・20日の2日間の記事でもって閉じられた。
30年余り前、両隣の家の灯りが壁の隙間から見える三軒長屋の真ん中の家で、年中やぐらコタツを置いて二人は差し向かいで仕事をしていたという。3人の若い歌人がやってきて夜遅くまで議論しあい泊まっていった。その晩のことを一人が「永田和宏仁和寺の家」という固有名詞を下の句に据えて詠んだ一首が、最終回の掲出歌だった。
ここで暮らした子どもたちの幼年時代は深い刻みとして記憶に残ると語られている。
「私にとってこの連載で一番大きな意味は、あなたと一緒に時間を共有したことだったと思う。どこへ行くにも必ず一緒に行った。昔、浄瑠璃寺を歩いた、そして何十年たって同じ道のりを歩く。かつてあった時間と、これからどれだけの時間があるのだろうかという、短い人生で歳月が持つあじわい。人生、時間というものを感じさせられました。」
こう振り返られた河野さんだが、十年前に乳がんという病名を知らされていた。
その秋の日、澄んできらめく鴨川の流れを見つめ泣きながら「私は生きよう」と思ったと綴られた6月11日。しみじみとこの世の美しさなつかし、人生の短さを思われていた。
読みながら涙で文字がにじんだ朝。発せられたことばの持つ優しさ強さ、真摯さが身に染む素敵な女性だったなと思う。
生きている今、今生こそを存分に生きろよ~
お盆の初日、そんな声が聞こえそうな気がしても不思議ではないかな…