京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 陽のさす海南の風土(1)

2011年03月06日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
建仁元年(1201)、当時40歳の藤原定家は後鳥羽院の熊野行幸に随行している。10月11日明け方、宿舎を出て塩屋王子から上野王子、津井(叶)王子・斑鳩王子・切目王子へと進んでいった。
6回目となる今回は、ちょうどその足跡をたどるように歩く。
王子社は潔斎、遥拝の社、上皇や法皇の宿泊に当たっては、神前での催しも多く行なわれてきた。明治の合祀で社がなくなり碑だけが残る王子社も多い中、切目王子は格式の高い五躰王子社のひとつで、藤白王子とで二社目になった。

            
予告もなく眼前に開けたこの大洋、定家も見ただろう海。彼が目にしたのは、明るさを増した早朝、初秋の海だけれど…。
今回は、海・海・海と、日頃馴染みのない私には海が見えるのがやたら嬉しかった。水平線の青さ、洋々とした広がり、気持ちは開放され浮き立つ思いだ。坂を下りながら目にする明るくきらめき返る美しさ。小さな白波、潮の香、…ついついこうして修辞を重ねてしまう。
            

     印南(いなみ)港。
このあたりは南海の大地震(1946年12月)で津波の被害を受け、17名の犠牲者がでた。印南に生まれたこの日の語り部さん。津波からの避難で3歳の弟と0歳の赤ちゃんに手を取られたお母さんは、5歳でしかなかった彼女を、あねさん!!と叱りつけながら急き立てた。その声の記憶は消えることがないと語られた。
          
              電柱に、ここは海抜約2.0m、…7.7mなどと、いたるところで注意を喚起している 
公民館々長、文化財保護活動の会長に、習字に着付けの指導、祭りのときのお化粧役に、印南の町の案内を語り部として…。70歳、地域に向ける心根の温かさ熱さあふれる女性の先導で過ごした一日だった。

    向こうは海
         左上までびっしり
みかん畑は姿を消して、海辺から小高い山の上にまで一面に広がるハウス・ハウス、ハウスの棟。
地に緑が青々と、これもお豆さん。
この規模、絹さや・うすいえんどうなど、お豆さんは印南町が日本一の産地だと言われてもあっさり頷ける。スターチスの花の紫色もビニールを透けて見える。

行き倒れを覚悟で、難路を歩く苦行こそが功徳を積むことになると考えられていた熊野古道。南海のこの明るい風土の陽光を受けて、これも先人が歩いた道ではあった。
コメント (6)
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