東本願寺の阿弥陀堂の南縁に腰を下ろした。吹き渡る、ちょっと強めだが、「ああ、ごくらく~」と口にしたくなるような風を受け、ただぼんやり座っていた。極楽浄土はどこにあるのかと尋ねられた一休宗純が、「極楽は西にあらず東にも。北(来た)道さがせ、南(皆身)にぞある」と応えたという話がある。「極楽」は、我が身の内にある、と。
高野山行きの前にちょっとお参り。そして、フットボールの合宿に参加する孫のガンバリにも手を合わせた。
この真っ白な槿(ムクゲ)は五弁の花が八坂神社の神紋に似ているらしく、「祇園守」と呼ばれてきたという。「槿花一朝の夢」。朝開き夕べにしぼむを繰り返し、一つの花の寿命は3日ほどか。まじり気や濁りのない清浄な姿をひろげてみせる。 心の濁りや曇りを払いとるのが一番よ、って花の言葉が聞こえてきそう。
壺に生ける一輪。いかに涼感を誘うかに工夫を凝らし、暮らしていく。
そこは、ほとけの み手のうちなのでしょう。
キリスト教徒である私ですが、合掌する時、時空を超えた安らぎを覚えます。
東本願寺の阿弥陀堂の南縁に腰を下ろした時に吹いてきた風、いい風だったのでしょうね。
良寛さまの「風」を思い起こしました。
何の願い事とてしません、「行かせていただきます」などと、ただご報告です。
大屋根の下、御影堂も阿弥陀堂も開け放たれて風は心地よく、
何かほっとして、いつまでも腰を下ろしていたい気分です。
心落ち着き、何か心に働きかけられる心もちがあります。
これはもう感覚的なものですね。感じるかどうかだけの違いでしょうか??
私のところにも、「天上大風」の書が奥座敷には掛けられております。
だいぶ古いものですが、奥ではなく、もっと身近に接しなくては…。
今の私に最適な言葉を有り難うございます。
長男家族のガンバリにただ手を合わせます
遠くに行くものですから…
自分の良心が極楽に通じてるような気もします
明日は、御講ですが行けません
帰省中の娘と実家のお墓参りに行き手を合わせてきますね。
「近くて見がたきは我が心なり」、とですね。
「自分の良心が極楽に通じてるような気もします」
とはまたすごい感覚ですね。
私は「世々を経て濁りにしみしわが心」でして、
垢離を落とさねばならないようです。
参拝し、洗われて帰るんですよ…。
娘さんとお墓参り、ゆっくりお話をなされますように。
極楽は我が身の内に〜
そうなんですね..。ついそれをわすれて
しまいますね。極楽を求めるならばまず、自分の
置かれた場所を見定めることでしょうか。
フットボール合宿。あまり暑くないと
良いですが..
自分の浅ましさに気づいて、分相応にですよね。
見定めることができて、幸せにも気づかされるのでしょうね。
つい忘れては欲ばっかりかいて。心の濁りを洗い流さなくてはと時々思います。
昨年の様子を聞きますと、ハイキングや様々なレクレーションを盛り込んだ合宿のようでした。
高原でですが、暑さのほどはどうでしょうね。