田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北海道を元気にする!? Part Ⅰ

2010-08-10 21:54:22 | 札幌学 & ほっかいどう学
 「北海道を元気にする」とは私ごときにはいささか大仰な表現だが、私が「札幌を知る」活動を続けている意味、仲間とともに学んでいる意味、その向こうには「自分の故郷である北海道を元気にしたい!」という願望が潜んでいる。この度、直截的にこの課題を考える機会があったので私には荷が重いがたまあ~にはこんなことを考えるのもいいかなぁ~、と思い少しの間考えてみることにします。

        
 一昨日(8日)、二つのイベントがあった。一つは8日未明(深夜)HTBテレビで「北の大地に未来はあるのか」~逆襲のシナリオ~と題する3時間に及ぶ生討論番組が放映された。一方、8日午後、自治労会館で「北海道を元気にする!」と題する農水省企画官の木村俊昭氏の講演があった。
 この二つのイベントのことを紹介しながら、私の稚拙な考えも併せてレポートしてみたい。

         
        ※ 今回の写真は全てテレビ画面を写したものである。画面
         にどうしても窓からの光が映り込む。できるだけ避けよう
         と工夫したが限界である。ご容赦ください。

【HTBテレビ 北海道朝まで生討論】
 番組はテレビ朝日の名物番組「朝まで生テレビ」の北海道バージョンという感じであった。仕切り役(司会)はご存知の田原総一朗氏である。

        
        ※ 相変わらずの田原節炸裂である。強引な仕切りは田原氏の特権?        

パネリストを紹介すると、
 ◇山 口 二 郎 氏(北大教授)
 ◇佐々木 隆 博 氏(民主党衆議院議員)
 ◇紙   智 子 氏(共産党参議院議員)
 ◇西 尾 正 範 氏(函館市長)
 ◇坂 本 和 昭 氏(帯広在住 観光カリスマ)
 ◇町 村 信 孝 氏(自民党衆議院議員)
 ◇稲 津   久 氏(公明党衆議院議員)
 ◇手 嶋 龍 一 氏(国際ジャーナリスト)
 ◇松 田 一 敬 氏(北海道ベンチャーキャピタル社長)
 ◇三 浦 里 紗 氏(羅臼町観光協会事務局長)
 ◇堀 江 貴 文 氏(実業家) ※ ご存知のホリエモンです。
という錚々たる顔ぶれが揃った。
 多士済々の方々の議論の内容を逐一紹介することは難しい。印象的だった論点を紹介することにする。

        
        ※ 慎重な言い回しが目立った衆議院議員の町村氏

【中央を頼ろうとする北海道】
 番組の冒頭、パネリストの何人かから「北海道の人たちは依存心が強いのではないか。いつも中央に頼ろうとしているように思える」との指摘があった。
 この点については以前から各方面で指摘されるところであるが、明治政府以来、政府が北海道開発に力を入れ開発予算をつぎ込んできたという歴史的な背景があり、今だに中央に頼ろうとする体質から抜けきっていないと指摘した。
 この点が良きにつけ、悪しきにつけ、北海道の発展を阻害しているのではないか、というのが多くのパネリストたちの認識のようであった。

        
        ※ 不甲斐ない民主党にご機嫌が悪い北大教授の山口氏

【北海道は保守的!?】
 そうした中央を頼ろうとする意識から抜け出そうとしない保守的な体質が北海道には色濃く残り、自立しようとする気構えが足りないとの指摘があった。そして、今や北海道のインフラはかなり整備された状況にあり、中央政府に頼らずに自立しようとする機運を盛り上げるべきではないかとパネリストの一人は主張した。
 ただ、中には「まだまだ北海道は遅れている。もっと中央政府は北海道に予算を配分すべきだ」と違う立場で主張するパネリストもいた。
 しかし、全体としては現状から脱却しよう、これまでの北海道の構造を変えようとするエネルギーに乏しく、北海道民の保守的傾向が根強いのではないかという指摘と私は受け取った。

        
        ※ 斬新なアイデア、旺盛な行動力、今後が注目される実業家の松田氏

 ここまでの議論から今回の討論の主題である「北の大地に未来はあるのか」に照らして考えてみると、こうした負の因子をどのようにして取り除いていくのかということになるのだが…。
 議論はこの後、北海道の主産業である農業(漁業)、観光についての議論に移っていく。
 次回はこのことに触れていくことにします。



 ※ 北照の夏が終わった… 
 友人から「甲子園は追わないのか」との問いかけがあった。
 しかし、テレビではどうしても臨場感に欠けてしまう思いがあり、北照高の躍進は期待しつつもブログで取り上げるつもりはなかった。
 昨日、北照高は一回戦で惜しくも(もろくも?)散った。
 全国レベルの力を持っていると見た北照野球だったが、雨の中断というアクシデントもあり十分に戦えず敗れた感が残った。
 しかし、結果は結果である。今年の北照の夏が終わった…。

 一つの何気ない言葉が胸を打つ。
 本日の朝日新聞のスポーツ欄。元バドミントン選手の小椋久美子さんが中京大中京に敗れた南陽工の選手エールを贈る。
 「南陽工の選手は今は悔しさだけだと思うけど、ここまできた頑張りは財産になる。後輩たちはその姿を見て感じてくれていると思う。そして、この仲間も財産。一生付き合っていける。将来、この負けた試合も、酒の席でのつまみになりますよ」
 この小椋さんの言葉をそのまま北照のナインに贈りたい。そう、いつの日かこの日の戦いを酒のつまみにして笑って語り合ってほしいと…。
 お疲れさん!北照ナイン。

市民カレッジ「おらが街“サッポロ”再発見!」

2010-07-24 21:45:14 | 札幌学 & ほっかいどう学
 現在、毎週土曜日札幌市民カレッジに通っている。今日は高校野球観戦のため欠席を予定していたのだが、高校野球が順延となったため今日も第3回講座を受講することができた。

        
        ※ 硬い(?)講座である。女性の受講生は一人のみである。 

 久しぶりに札幌市民カレッジを受講している。
 毎週土曜日午後の開講で今日が第3回目の講座だったが、高校野球の観戦を優先して今回は欠席しようと思っていたのが、雨で順延となり今回も受講することができた。

 講座は「おらが街“サッポロ”再発見!~自然の恵みと都市の発展~」という講座名に魅せられて受講することにしたのだ。
 私はすっかりこれまで受講してきた“札幌学”の延長のような講座だろうと考えていた。
 ところがその意に反して地質学的、地形学的に札幌を考察しようとする講座であった。
 「あれっ?」と思ったのだがこれまで3回受講してきて、以前受講してきた講座(これまで五つの“札幌学”の講座を受講した)が人文学的な講座だったのに対して、異質な今回の講座は、いわばこれまでの講座を縦糸とすると今回の講座が横糸的にこれまでの講座を補完してくれているようでなかなか興味深い。

 例えば札幌の街の地質学的な特徴は一応把握していたが、それをより専門的に解説してくれ、特に北西部、北東部の泥炭地帯(低湿地帯)を現在の姿に改修するために祖先が闘った土壌改良の方法や歴史などを知ることができた。
 今日の講座ではまた、札幌が旧支笏火山の大爆発の影響を受け、多量の火山灰が降り注ぎ、その一部が札幌軟石(溶結凝灰岩)となって産出されることになったことや、野幌を始めとするレンガの生産も地層から多量の粘土が採掘されたことがその要因だったことを理解することができた。

 講座は残り2回である。
 講師は大学や専門学校などの教えるプロではない。自らが講座を企画して講師に立候補した地質調査会社に勤める会社員である。
 札幌市民カレッジ独特の「ご近所先生企画講座」というものだ。それだけに教え方にぎこちなさはあるものの、専門的にならぬようにと気を使ってくれているのがよく分かる。

 今回は友人3人と一緒に受講していることもこれまでにない経験で楽しく受講できている。
 受講後に立ち寄るカフェでの語らいも楽しい。
 残り2回の講座を楽しみたいと思っている。

札幌軟石 いま・昔

2010-05-02 21:11:39 | 札幌学 & ほっかいどう学
 北大総合博物館では今(4/27~5/30の会期で)「わが街の文化遺産 札幌軟石」という展示会が開催されています。その関連セミナーとして、5月1日に「札幌軟石 いま・昔」と題した講演とパネルディスカッションが行われたので参加してきました。 

        
        ※ 展示会では札幌軟石の仕上げの違いを具体的に展示し
         て説明していました。奥から「ツル目仕上げ」、「割り肌仕
         上げ」、「機械割り肌仕上げ」、「カッター仕上げ」の順に展 
         示しています。       

 講演というよりも、話題提供と称したほうが適切でしょうか。
 三つのテーマでそれぞれが20分間ずつ札幌軟石に関わってお話してくれました。そのテーマとスピーカーは…。
 ◇「札幌軟石は支笏火山の贈り物」 北海道地質調査業協会  若松幹男氏
 ◇「札幌の軟石文化」         札幌軟石文化を語る会  岩本好正氏
                       石工の会           地蔵 守氏
 ◇「歩いた!探した!見つけた!札幌軟石」 札幌建築鑑賞会 中村祐子氏

        
        ※ ツルハシで整形したものはやはり手作りの味わいがあ
         るように思えますが…。

 若松氏は地質の専門家ですが、素人にも分かりやすく支笏火山の大噴火によって大量の火砕流が放出され、その火砕流が札幌軟石となったことをイラストなども活用して説明してくれました。ちなみに現在の支笏湖はそのときの噴火の跡に水が貯まってできた湖だということです。

 岩本氏と地蔵氏は札幌市南区の石山付近から採掘される札幌軟石の採掘の様子を説明してくれました。特に地蔵氏は石工として実際に採掘に携わった方でしたので、手掘りをしていた頃の説明には説得力を感じました。また、説明から軟石ゆえに加工が比較的簡単だったことが古くから札幌軟石が建物のさまざまなところに活用されることができたことを理解することができました。

        
        ※ 手掘りの道具を用いて説明してくれた地蔵氏です。

 中村氏は建築鑑賞会の活動として現在札幌市内に残る札幌軟石の建物の記録化を進めているそうです。現在まで、中央区、北区、東区、豊平区の記録化を終え、現在南区を調査中とのことで、会員による調査の様子やその意義について話されました。

 パネルディスカッションでは昭和25年に建築法の改正があって軟石だけでの建築はできなくなった。しかし、現在でも意匠的価値から壁に貼り付けるなどの方法で利用されているそうです。
 そうしたことなどから札幌軟石の生産は大幅に減りましたが、現在も南区常磐で採掘が行われています。
 札幌軟石は歴史的建造物として保存されるだけではなく、古い軟石造りの石倉が再生活用されています。また、先述したように現在も採掘がされているというようなところは全国でも珍しいとのことです。

 札幌の街のいたるところで眼にすることができる札幌軟石の建物、倉、あるいは飲食店などですが、その背景を少しは理解することができた思いです。

市民カレッジ「さっぽろ『食』の事始め」 Ⅲ

2010-02-26 18:59:38 | 札幌学 & ほっかいどう学
 10月10日は「缶詰の日」と制定されているそうである。その由来は明治10年10月10日に日本初の缶詰工場が石狩市で操業を始めた日に因んでいるとのこと。こうした意外な事実を知ることができるのも市民カレッジの魅力の一つである。

 市民カレッジ今シリーズ4講目は2月23日(火)に行われた。(2月16日の第3講の「札幌発玉ねぎ物語」は札響公演のため欠席してしまった)
 講師は、「いしかり砂丘の風資料館」の学芸員をしている石橋孝夫氏が務められた。
 講座は第1部「サケの文化史」、第2部「缶詰の文化史」と2部構成であった。

 石狩のサケは、石狩川に遡上するサケを捕獲していたことを示す遺跡が発掘され、実に縄文時代からさまざまな仕掛けを施しサケを捕獲し、貴重な食料としていたことが遺跡の発掘によって実証されている。(遺跡の名称は「石狩紅葉山49号遺跡」という名である)
 石狩川で捕獲されるサケの量は、江戸時代で180万匹、明治初期においても100万匹以上が水揚げされたと記録には残っている。

 明治初期の北海道開拓使は、こうしたサケを始めとした北海道の産品を外国へ売り出す手段として、当時製造技術が実用化しつつあった缶詰の製造に目を付けた。
 さまざまな試行錯誤や紆余曲折の末、上記したように明治10年に北海道開拓使は石狩に「開拓使石狩缶詰所」を開設した。
 しかし缶詰の製造技術がしっかりと確立していなかったこともあって、思い描いていたほど生産は上がらなかったようである。それでも、記録によると明治11年には12,000缶のサケ缶、3,200缶の牡蠣缶、9,3001缶の鹿肉缶が生産されたとある。さらに明治14年には72,000缶のサケ缶と7,000缶の酢漬けサケ缶が生産されたという。
 缶詰の値段は当時の米一升の値段の3~5倍したというから庶民には手の出ない高級品だったようだ。

 結局、「石狩缶詰所」は当初の目論見を達せないまま操業から10年後の明治20年北海道開拓使は官営事業を中止し、翌年施設を民間(高橋儀兵衛)に無償貸与した。
 事業を引き継いだ高橋儀兵衛は、操業したり中止したりと繰り返すが、それも明治40年には完全に缶詰製造を中止している。

 欧米の進んだ技術を農業分野を中心に導入を進めた北海道開拓使であったが、こと缶詰の製造に関しては成功とは言いかねる結果であった。
 しかし、今回の「さっぽろ『食』の事始め」を受講し、いずれにおいても北海道開拓使が採用した御雇い外国人が深く関与していたことを知った。
 第1講の「米づくり」に関しては北海道に米づくりは不適であるとの反対の立場をとった者として、第2講の「リンゴ栽培」については苗木を移入する役割を担ったし、欠席した第3講の「玉ねぎ」についても資料を読むかぎりアメリカから御雇い外国人が種子を持ち込んだとある。詳述はできなかったが、缶詰の製造技術の導入についてはあのクラーク博士も関わっていたようである。  

 このように北海道の開拓に彼ら御雇い外国人が果たした役割は大きく、彼らの活躍が北海道の発展の礎を築いたことを改めて知ることができた講座であった。

地域発展の意味を問う

2010-02-16 16:41:25 | 札幌学 & ほっかいどう学
 講師は受講者に投げかけた。地域の発展を経済の領域拡大だけを追い求めることから脱却すべきではないのかと・・・。
 
 北海道新聞と小樽商科大学が共催する「時代が読める経済・ビジネス講座」の受講券が1月に続いて舞い込んだ。
 2月13日、札幌駅近くの小樽商大サテライト教室で「公共事業依存からの脱却を目指して」と題して小樽商大准教授の田中幹大氏が講義したのを受講した。

          

 田中氏は概ね次のような構造で話された。
 北海道の経済は公共事業(土木建設業)に負うところが大きいが、その公共事業は1993年当時と比べると2006年には半減してしまっている。その公共事業がこの先大きく復調するとは考えられない。
 日本経済が現在やや復調気配にあるのは製造業の好転である。
 その製造業の代表として北海道に進出している「トヨタ北海道」を例にして考えると、トヨタの好況につられて下請けも恩恵にあずかっているが、その下請けで「トヨタ北海道」に部品を納入している道内企業は6社にすぎない。
 その「トヨタ北海道」も企業としての意志決定をする権限はなく、あくまでトヨタ本体からの指示・命令に左右される。親会社の動向により業績が左右される下請け製造業に大きく期待はできない。
 そうした中、「食」を通じて地域・経済発展に取り組む十勝・帯広の動きを注目した。

 その十勝・帯広の動きとは・・・、
 ◇食品加工技術センターとの連携による食品開発
 ex.丸勝の「酢」、「鮭節」、「枝豆サラダ麺」など…。
 ◇「北の屋台」を通したまちづくり ~ 地産地消
それらの動きが十勝・帯広では点の動きから線の動きに成りつつある。

 そして田中氏は次のように締め括った。
 十勝・帯広では地域住民が生き生きとしてこうした取り組みに参加している。
 地域の発展の意味を量的拡大の面からのみ捉えるのではなく、地域が元気になる、人が元気になることも地域の発展として捉える考え方があっても良いのではないか。地域が元気になり、人が元気になることが、やがて量的拡大に繋がることもあると思う。
 そして将来の展望として、「食」を通じての中国への展開を視野に入れるべきだとして講義を終えた。

        
        ※ 講義をする田中幹大小樽商大准教授です。

 土木建設業や製造業と、食品加工業や飲食業を同列に論じるにはやや難があるような気もしないではないが、田中氏の結論もやはり北海道の発展は「食」にあり、と見たようだ。
 これまで何人かの経済の専門家のお話を伺う機会があったが、誰もが北海道の発展を考えるとやはり北海道の農畜産漁業の産品を主として戦略を立てよ、と云っていたようである。
 識者の見方・考え方は一致している。問題はいかに戦略的にこの課題を克服していくかということのようだ。官民一体となって課題を克服し、北海道新時代の到来を目指してほしいものである。

 まったくの専門外と思い遠ざけていた経済のお話ですが、こうして何度か話を伺っているうちに面白くなってきましたね。

市民カレッジ「さっぽろ『食』の事はじめ」 №2

2010-02-12 21:09:43 | 札幌学 & ほっかいどう学
「平岸リンゴ」今むかし

 明治の一時期、北海道がリンゴの生産額全国一だった時期があるという。その主産地が札幌の平岸地区だったと・・・。現在の平岸の様子からは想像もつかない。まさに「平岸リンゴ」今昔物語である

        
        ※ 直接講義とは関わりないが、講師の斎藤氏からプレゼン
         トされた「陸奥」という品種である。これは無袋(袋を被せず)
         で育てたので黄色い色をしているそうです。

 市民カレッジ今シリーズ2講目は2月9日(火)に行われた。
 講師は、弘前大学名誉教授で長い間リンゴの研究を続けてこられた斎藤健一氏が務められた。
 斎藤氏は実家が平岸でリンゴ農家を営まれていたという希有なリンゴ研究家である。

 平岸のリンゴはやはり西欧から来道した開拓史によって明治8~10年頃に苗木を導入したことが始まりである。
 苗木を配付されてもリンゴの苗木など初めてのため半信半疑であったという。
 ところが定植後数年経ち、美味しい味・食感・芳香などに驚き、本格的にリンゴ栽培に着手するようになった。
 特に平岸地区は大消費地札幌に隣接していたことで徐々にリンゴ園経営者が増えいったという。
 明治の末期から大正、昭和にかけて平岸のリンゴ栽培面積は伸び続け、昭和22年の作付け分布図を見ると、豊平川沿いがリンゴ園で埋まっているのが分かる。(この様子を「ベッタリリンゴ園」とか「リンゴの樹海」と称したようである)札幌の他の地域(本村、山鼻、白石、中島)が明治末期を境に衰退していったのとは対照的である。

 開拓史によってもたらされたリンゴ園の経営は全道的に広まり、札幌以外では特に空知地方が一大産地だったようである。
 そうしたこともあって明治37~40年にかけて北海道のリンゴ生産額は青森などを上回り全国一に輝いていたと記録にある。その後は青森県にその座を奪われたが・・・。

 他のところとは違い、大正、昭和になっても平岸のリンゴ経営面積は伸び続けたが、やがて平岸にも転換期が訪れた。
 昭和20年代後半になって、樹勢低下、品種更新の遅延、気象災害の続発、大規模病院や住宅団地の開設など地域の住宅化が進み、リンゴ園を経営する農家が徐々に減り始めた。
 それでも昭和46年の分布図ではまだ僅かに残っていたリンゴ園だったが、昭和50年頃には消滅してしまった。

 今、リンゴ園が盛んであった平岸の辺りを歩いてみても住宅が密集していて、その痕跡を見出すのも難しい。
 環状通の中央分離帯にあるリンゴ並木、その一端に建てられた「リンゴ並木の碑」、そして平岸郷土資料館の中などにその名残を見ることができる。

 以上、「平岸リンゴ」今昔物語である。

        
         ※ これも直接講義とは関係ない写真だが、講師の斎藤
          氏がたくさんのリンゴの品種を持ち込んでその多様な品
          種を紹介してくれた。もちろん平岸産ではない。
          

市民カレッジ「さっぽろ『食』の事はじめ」 №1

2010-02-06 21:56:38 | 札幌学 & ほっかいどう学
札幌米づくりの夜明け

 札幌(北海道)に米づくりが広がろうとしていた明治期に札幌農学校(現北大)と駒場農学校(現東大)の間で意見の対立があったとは・・・。歴史の面白さを垣間見た思いがした。
 
 久しぶりの市民カレッジである。
 冬だからだろうか? それともテーマが地味だからだろうか? 受講者が少なかったのが気になったが、講義そのものは興味深く聴くことができた。

            

 講義は稲作研究家の石村櫻氏(拓殖大北海道短大名誉教授)が務められた。
 氏によると、札幌(北海道)における稲作は本州からの移住者によって明治以前から試みられていたようである。
 しかし、冷涼な気候により多くは失敗を繰り返し長続きはしなかった。
 それでも農民は米への思いを断ち切れなかったのだろう。さまざまな人たちが試行錯誤を繰り返しながら米作りへの意欲が絶えることはなかった。
 歴史に残る形で最初に稲作を成功させたのは島松に水田を開墾した中山久蔵だと云われている。
 彼自身が残した日誌によると明治6年に10aあたり340kgの玄米を収穫したとある。(石村氏によるとこの数字には疑問があるとのことだが…)

 一方、北海道開拓を進める「官」の立場はどうだったかというと…。
 明治2年、北海道開拓史は多数の御雇い外国人を招き入れ、欧米式農法を北海道に導入しようとした。
 その御雇い外国人は、北海道の冷涼な気候は稲作には向かない断じ、小麦などの耕作を勧めた。つまり札幌農学校出身者が多数を占める北海道開拓史としては稲作には否定的だったのである。
 しかし、記録によると「官」の施設である「札幌官園」において密かに(?)稲作の試験が行われていたのである。明治9年には600坪、明治16年には16,000坪で水稲の耕作試験が行われた記録がある。

 こうした背景もあり、北海道においては多品種・施肥・有畜・機械等の導入と換種法(ローテーション)の欧米式農法が広まっていったのである。
 転換期は明治26年に北海道庁財務部長として駒場農学校出身の酒匂常明(さこう)が着任に始まる。
 酒匂は同年すぐに札幌市白石村と亀田郡亀田村に稲作試験場を設置し、北海道における稲作研究に着手したのである。(翌年には札幌市真駒内にも稲作試験場を設置したとある)
 こうした「官」の後押しと、篤農家の地道な努力によって札幌(北海道)における米作りは本格化してゆくのである。

 それにしても、札幌(北海道)の農業の推進に関わって、札幌農学校と駒場農学校の間に意見の対立があったということは興味深い事実である。

        
        ※ 講師の石村氏からいただいた北海道の代表的な稲の
         品種「ホシノユメ」のもみです。        

 この後、「さっぽろ『食』の事始め」シリーズは、リンゴ、玉ねぎ、サケと続きます。その都度レポートしていきたいと思います。

北海道のポテンシャル

2010-01-25 21:02:16 | 札幌学 & ほっかいどう学
 北海道が大きなポテンシャル(可能性)を秘めた大地だということを小樽商科大学の海老名教授は強調した。外から見ると、北海道は私たちが感じている以上に魅力に満ちているようだ・・・。

 最近はいろいろな講演や試写会に応募しても、当選する確率が下がってきたように感じていた。
 そんな中、北海道新聞と小樽商科大学が共催する1月23日(土)開催の「時代が読める経済・ビジネス講座」の招待券が舞い込んだ。
 テーマは「アジアと共に、これからの北海道を考える」と題して、小樽商科大学ビジネスセンター長を務める海老名誠教授が務めた。

        

 今、アジアが元気である(経済的に)と海老原教授は言う。
 その象徴が中国であり、インドの発展である。
 中国、インド以外にも台湾、韓国を始めとするアジアNIESの国々、マレーシア、タイを始めとするASEAN諸国も堅調な伸びを示している。
 これからの日本は、これからの北海道は、アジアとともに発展する道を見出すべきである海老原教授は主張する。

 その北海道の秘めたるポテンシャルとは・・・、海老原教授は4点にわたって北海道のもつ可能性を指摘した。
 ①肥沃な大地(高品質農産品の産出)、②良質な漁場(豊富な海産物)、③広大な大地・観光資源(北海道がブランドそのもの)、④過去にとらわれない気質(異文化交流の素地)を挙げた。

        
        ※ 分かりやすく北海道のポテンシャルを説く海老名教授です。   

 多岐にわたった話の中から、ここでは③の観光資源としての北海道に絞ってレポートする。
 渡された新聞資料の中で次のような記事が目を惹いた。
 中国の若手経済人が北海道を訪れて「アフリカ以外の世界中を旅したが、北海道の大自然はニュージーランドと同じくらい素晴らしい」、また別の一人は「中国に最も近い最高級リゾートが北海道です」と・・・。これほど北海道が絶賛されている。北海道への憧れは中国にかぎらずアジア全域に広がっているともいわれている。
 そのアジア諸国のGDP(国内総生産)、並びに一人当たりGDPが共に右肩上がりで伸び続けている。ということは、国民ひとり一人の生活も次第に豊かになり、海外旅行へ出かけるアジア各国の人たちも飛躍的に増大すると予想されている。
 そうした時代を間近に控えた中で、躍進国の筆頭である中国人が評する北海道観は心強いし、私たち北海道人はもっと自分たちが暮らす北海道に自信を持って良いのかもしれない。また、そうした人たちを受け容れるあらゆる環境整備の必要があると海老原氏は指摘する。

 北海道が産する高品質の農畜産漁業の産品をもってアジアに打って出るのも良し、北海道にアジア人を呼び込むのも良し、北海道のもつポテンシャルには大きなものがあるようだ。

 ただ、海老原氏は最後に次のように指摘した。
 少子高齢化が進むなかにあって、北海道を北海道の人たちだけで支え続けることには無理がある。これからはアジアの人々を受け容れ、アジアの人たちと共に生きていこうとする覚悟が必要である、と・・・。
        
 海老原氏のお話は、私たち一般人にも理解できるようにと分かりやすくお話いただいたことで有意義な講演会となりました。

北海道は南の島?

2010-01-18 16:56:40 | 札幌学 & ほっかいどう学
 北海道新聞野生生物基金ネーチャートーク 竹田津 実・あべ 弘士『北海道の自然を語る』を聴いた。(1月16日午後、道新ホール)そこで語られた驚愕の事実とは??? 
        
        
        ※ ネーチャートーク自体は撮影禁止だった。そこで道新ホ
         ール入り口の立て看板をパチリと…。         

 軽妙である。
 洒脱である。
 ユーモアをたたえた竹田津氏の話はいつ聴いても心楽しいものがある。

 竹田津氏は獣医師でエッセイスト、さらには写真家の顔ももつ。
 道東の小清水の獣医師として勤務しながら、北キツネの観察や撮影に情熱を注ぎ、多くのエッセイ、写真集、児童書を出版した。その中の一冊が映画『子ぎつねヘレン』の原作となり、一気に注目を浴びることになった。
 氏は53才で家畜診療所の獣医師を退職した。それと同時に氏の観察フィールドは世界に広がった。
 アフリカは何度も訪れたようであるが、氏の心を動かしたのはカムチャッカ、サハリンの自然を視たときである。

 カムチャッカやサハリンで視た自然は、北海道と変わらない動植物がそこで生を営んでいたという。
 氏は云う「ブラキストンラインを実感しました」と・・・。
 ここからが氏の独自の発想である。
 「北海道は南の島ではないか」と・・・。
 つまり、北海道を南限として北側には北海道と同じ自然が広がっている、だから北海道は北方性の生物が棲む最も南に位置する島であると竹田津氏は指摘する。

 そして竹田津氏は語る。
 北海道は面積の70%が森林であり、これだけ自然が豊かなところは世界的に見ても貴重な存在だという。
 宝の山の中にいると、宝が見えないが、私たち北海道人はもっと北海道の自然の豊かさを再認識し、北海道の自然を誇り、大切にすべきでないか、と竹田津氏は静かに主張するのでした。

 「驚愕の事実とは?」などとオーバーなリード文は羊頭狗肉の感は逃れられませんが、ちょっとだけ遊んでみたかったことをお許しください。

「地域学」を考える

2009-12-17 19:15:35 | 札幌学 & ほっかいどう学
  最近私は「札幌学」なる講座を意識的に受講していますが、東北各地の「地域学」を創始した本家本元である赤坂憲雄氏の講演を聴くことができました。
 
 赤坂憲雄氏とは、現在東北芸術工科大学大学院長を務められていますが、と同時に民俗学者として有名な方です。特に「東北学」を提唱し、確立したことで、その後の国内の地域学ブームを引き起こす因を成したことで知られています。
        
 その赤坂氏を迎えた「『ほっかいどう学』実践講座 in 札幌」が12日(土)かでる2・7で開催され参加してきました。演題は「地域学、東北知の鉱脈を掘る」という高尚な題が付けられ、話の内容も私などが理解するには少々難解な内容であったように思います。
 氏はすでに一度本講座の講師を務められていたということから、地域学の概論的内容を省略したきらいがあり、私のように初めて聴く者にとってはさらに難解になってしまったところもあったようです。そうした中で、私なりに氏の言葉から学び得たことを記録しておくことにします。
        


 氏は人間の歴史の始まりは定住の地をもたず、離合集散を繰り返す「遊動」の歴史であったとします。それが約一万年前ころから人類は群れをつくって「定住」するようになった。定住によって、人々の文化を育む「里山」が生まれた。
 それが現代になって住んでいるところでの生業が成り立ちにくくなり、再び「遊動」の時代を迎えたようだと分析します。それは同時に「里山」の消滅をも意味してくることになる。
 里山が消滅する前に、そこでの人々の暮らしや文化を記録に留めること、それも「地域学」の一つである。(と赤坂氏は明言はしていませんが、私はそのように受け取りました)

 赤坂氏はその他にも民俗学者らしく、日本の歴史や現状、人々の暮らしの断片を切りとり、氏らしい見方・考え方を数々提示してくれました。赤坂氏の中ではもちろん全てが連環しているのだと思いますが、私には少々断片的すぎて、それらを結び付けることはできませんでした。
 その中で、中心が一つしかないような同心円的な地域学の形態・組織は消滅していくだろうと予言し、中心が二つも三つもあるような複雑な集合体の方が多様な形で発展していくと述べました。
 このことが何を指すのか、今の私には理解できないところですが忘れずに記憶しておきたい一言です。
        

 この機会に一般論的な地域学を調べてみました。すると、「自分の住む地域の歴史や文化、産業、自然などを見つめ直し、地域の魅力や可能性を発掘しようとするもの」とありました。
 私が学ぶ「札幌学」はまさにここでいうところの地域学に他なりません。

 赤坂氏が考える地域学は、民俗学的視点から、あるいは学術的視点から地域史、地域学を捉えたものであるように思います。
 私が学ぶ「札幌学」は民俗学的意味は薄いけれど、確かに地域学の一つと言えそうです。
そうした意味では「札幌学」は、赤坂氏が主張するように地域学には二つも三つも中心があってよいとするその具体の一つなのかなぁ、と考えたりしたのですが・・・。