9月14日(火)、この日はこの旅の主たる目的である故坂口一弘氏の仏前で生前のお付き合いのお礼を述べた後、木古内町、福島町、知内町、松前町と巡り歩いた。ちょうど函館から青函海峡沿いに面する町村を巡り歩いたことになる。それぞれの町村で興味ある史跡や施設に触れた旅だった。
◆第2日 9月14日(火)
この日はまず、この旅の主たる目的である故坂口一弘氏のお宅に伺い、仏前にお参りすることであった。奥さまに最も迷惑をかけない時間帯と考え、午前10時にお邪魔し故坂口氏の笑顔の遺影が掲げられた仏前でお参りをさせていただいた。奥さまからは坂口氏の遺品を贈られ、それを有難くいただきお宅を退去した。
このことで、私の中でずーっと気になっていたことに一つの区切りがついた思いである。
◇木古内町
■サラキ岬(咸臨丸座礁地点)
※ 咸臨丸終焉の地の案内板です。赤い矢印の方向が座礁地点だということです。
※ 咸臨丸の復元模型が展示されていました。
※ 広場の一角におかれた錨ですが、後年実物であることが判明したということです。
「サラキ岬」は、函館市から木古内町に向かう国道228号線のすぐ脇に大きな看板と咸臨丸の復元模型があるので見落とす心配はない。
「咸臨丸」といえば、勝海舟に代表される江戸幕府代表が咸臨丸を駆って太平洋を往復したことで有名な軍艦である。その後、戊辰戦争時は榎本武揚率いる旧幕府軍に属するものの、新政府軍からの攻撃を受けエンジンなどを損傷し帆船となったそうだ。その後新政府は戊辰戦争に敗れ北海道移住を余儀なくされた仙台・白石藩の旧臣401名を乗せて小樽へ向かう途中、木古内町サラキ岬沖で座礁したが、付近住民の懸命な救助で幸い犠牲者は出なかったが咸臨丸は数日後に破船・沈没したそうだ。時に1871(明治4)年9月12日だったという。
ところで「サラキ岬」とカタカナの地名が気になった。サラキ岬があるところは亀川地区であり地名は関係がない。調べたところ、「サラキ」とはアイヌ語で「葦」を意味するという。北海道の地名の多くはアイヌ語に由来していると言われているのでこの説どおりなのだろう。
■木古内町郷土資料館「いかりん館」
※ 残念ながら休館していた木古内町郷土資料館「いかりん館」の建物です。
この旅では訪れた地域を知るために訪れた地域の資料館を訪ねようと思っていた。そこで木古内町の資料館を訪れることにした。資料館は地域(鶴岡小学校)の閉校した後の校舎を利用してオープンしたという。木古内町の中心から5キロほど内陸に入ったところに資料館はあった。しかし、ここも緊急事態宣言下のため閉館中だった。このことから私は以降の町村で地域の資料館を訪れることを断念した。
なお「いかりん館」という愛称について、私はこの辺りで捕れるイカにちなんだものかと考えていたが、調べてみるとやはり咸臨丸に関連していて、咸臨丸のイカリが展示されていることから命名されているとのことだった。
■道の駅 みそぎの郷きこない
※ 「みそぎの郷 木古内道の駅」です。
※ 道の駅の隣にあるJR木古内駅です。
木古内町の道の駅は、他の道の駅と違い国道沿いの立地ではなかった。建っていたところは、鉄路の駅と隣り合って建っていた。鉄路の駅と道の駅の競演といった感じである。
鉄路の方の駅は、北海道新幹線が開通し北海道の玄関口となる駅であり、道南いさりび鉄道の始発駅でもある。駅舎は新幹線開通に合わせて建設されたらしく真新しい感じだった。そして道の駅のほうも新幹線開通よりは一足早くオープンしたそうであるが、集客率、売上高においても有数の道の駅と言われている。
私はざあーっと見ただけであるが、なるほど魅力が詰まった道の駅といった印象だった。
◇知内町
■新幹線展望塔
※ 「道の駅 しりうち」と隣に立つ「新幹線展望塔」です。
※ 展望塔から見た新幹線の線路です。
青函海峡沿いを走る国道228号線は知内町市街地を過ぎる頃から内陸に向かう。そして北海道新幹線の鉄路と国道が交差するところに「道の駅 しりうち」があり、その横に「新幹線展望塔」が建っていた。高さは約14mとのことだが、私も一応塔の頂まで上ってみた。なるほど線路のすぐ横に建っているので写真撮影には絶好のスポットと思われた。
■日本最古の墓出土地
※ 道の駅の敷地内に立てられていた「日本最古の墓出土地」碑です。
「道の駅 しりうち」の敷地内にその碑は立てられていた。この地は発掘調査において旧石器時代の墓と考えられる日本最古の土壙が発見されたという。その土壙からはコハクや小玉・垂飾・石刃・石刃核・細石刃など14点が出土され、平成3年に重要文化財に指定されたそうだ。
◇福島町
■青函トンネル記念館
※ 「青函トンネル記念館」の外観です。
※ 記念館内に展示されていたトンネル掘削機の先端の掘削ドリルです。
※ ちょっと古風にも見える各種の計測機器や道具などです。
※ 記念館の入口に展示されていた潜水調査船「くろしお」です。(本物?OR復元模型?)
函館方面から来ると福島町の中心街に入る前に左側に円筒形の特徴的な建物が目に入るが、それが「青函トンネル記念館」である。
入館料700円(横綱記念館と共通券で)を払い館内を見学した。館内はトンネルの掘削に使用した機械類やパネル展示によってトンネル工事の様子が説明されていた。私にとってはトンネル工事を記録した映像により工事の困難さを実感することができた 。
また、記念館の前に北大の潜水調査船「くろしお」が展示されていたが、記念館スタッフに伺うと、トンネル建設時に海底ボーリング調査に活躍したことから展示されているとうかがった。
■横綱千代の山・千代の富士記念館
※ 横綱記念館の外観です。館外には二人の横綱の土俵入りの銅像がありました。
※ 館内の展示品の一部です。(写真は千代の富士の遺品です)
※ 館内に再現されていた相撲部屋と土俵です。ここで毎年九重部屋の夏合宿が行われていました。
この「横綱記念館」(略称)は、福島町市街地の「道の駅 横綱の里ふくしま」の隣に建っていた。その外観は福島町が生んだ二人の大横綱の記念館に相応しく堂々とした建物だった。館内には、二人の横綱の綱や優勝トロフィーが展示されていた。特に千代の富士は優勝回数も多かったことからその展示も充実していたように映った。ただ、二人の活躍を伝える各種の映像機器等はほとんどが故障していて使用できず、ちょっと残念だった。
館内には九重部屋の土俵が再現されていた。そこで管内スタッフに「ここで夏には九重部屋の合宿が行われているのですか?」と問うたところ「以前は毎年夏にここで合宿をしていたが、ここ2年はコロナ禍のため中止となっています」とのことだった。
■伊能忠敬北海道測量開始記念公園
※ 伊能忠敬が測量している様子を表した銅像です。(下の写真は背後から)
福島町の中心街から6~7キロ走った吉岡地区の道路傍に公園はあり、その一角に伊能忠敬が測量をしている姿の彫像が立っていた。
像の傍に立っていた説明板によると1800(寛政12)年、蝦夷地測量のために函館に渡ろうとしたが強風の影響もあり上陸したのが現在の福島町吉岡地区だったという。そこで伊能は吉岡から測量を開始したという。当時はもちろん歩測によっての測量だったが、伊能は遠く厚岸まで足を伸ばして測量をしたという。その時伊能は55歳。驚くべき健脚であり、粘り強い精神の持ち主だったことが伺われる。
■トンネルメモリアルパーク(青函隧道建設記念碑)
※ 遠く竜飛崎を望む丘に設置された「青函隧道建設記念」碑です。
前記記念公園のある吉岡地区は青函トンネル工事の北海道側の前線基地として名高いところである。この吉岡地区の小高い丘に「トンネルメモリアルパーク」があった。パークからは遠く本州側の前線基地となった竜飛崎が遠望され、そこには「青函隧道建設記念」碑が立っていた。
◇松前町
■松前公園(松前城下町、松前城、松前藩主松前家墓所、松前藩屋敷)
※ 松前町の商店街の建物群です。(下の写真も)
松前の街中に入っていったとき「おっ!」と目を見張った。街中全体が江戸の町でも入ったような錯覚を受けたのだ。というのも目に入る建物すべてが白壁の町家風造りだったのだ。郵便局も、銀行も同様だった。調べてみると、松前の商店街は町を上げて松前藩の城下町造りに取り組んでいるとのことだった。
※ 松前公園内には北限とも云われる竹林がありました。
※ 特別な桜の木なのでしょうか?「純愛霞」という札がかけられていました。
また、城があったところは他の町同様に「松前公園」として整備している。その松前公園は桜の名所としてつとに有名である。この時期はちろん桜は咲いてはいなかったが、有名な桜の木や見本園などが公園内に点在していた。また、公園内には松前藩にまつわるさまざまな史跡・施設が点在していたが、そうした松前公園を巡り歩いた。
《松前城》
※ 搦手二の門から撮った松前城の天守閣です。
※ それなりに風格を感じさせる天守閣です。
お城というと天守閣である。松前城の「天守閣」も立派に再建されていた。見たところ昨年見た弘前城の天守閣より立派に見えたが、実際はどうなのだろうか?残念ながら緊急事態宣言下のため内部見学(松前城資料館)は出来なかったが、外からでも天守閣の威容は十分に感ずることができた。
《松前神社》
※ 公園内にあった「松前神社」です。
松前城の天守閣近くには「松前神社」が建っていた。松前神社は松前藩の始祖・武田信広を祭神とする神社だそうだ。神社としての規模はそれほどでもなく、建物もやや古風な感じがした。
《松前藩主松前家墓所》
※ 塀に囲まれた一角が「松前藩主松前家墓所」です。下の写真は塀の中の様子です。
松前公園内にはところどころに墓石が目についたが、公園の奥の一角に囲いをした墓所があった。いかにも他の墓石とは一味も二味も違う雰囲気を纏った墓所だった。一つ一つはけっして大きなものではなかったが、いかにも藩主の墓所という趣があった。
《松前藩屋敷》
※ 「松前藩屋敷」の入場門は閉じられていました。
※ 奉行所を再現した建物です。
※ こちらは武家屋敷を再現した建物です。
※ こちらは旅籠の「越後屋」です。
※ こちらは商家の「近江屋」です。
ここを訪れる前「藩屋敷」とはいったい何だろうか?と思いながら公園の一番奥にあるところを訪ねた。するとそこは松前藩の当時の街並みを再現したところだということが屋敷前の説明板で分かった。ところがそこも屋敷内の見学は閉鎖されていた。残念!と思っていたところ、そこのスタッフが「建物の中は入れないが、外から見学はよろしいですよ」と声をかけてくれた。好意に甘えて敷地内を見学させていただいたが、敷地内には「奉行所」、「武家屋敷」、「商家」、「旅籠」などの建物が再現されているところを見て回ることができた。
その他にも公園内にはたくさんの寺社や石碑などが点在していたが、この日の私はたくさんの見どころを見て回ったこともあり、疲れもあったので見学を終えることにした。
この日は青函海峡沿いの4町を巡り歩き、他にも感じたことがあるが、そのことについては別の機会に触れたいと思う。
たくさんの見どころを見て回り、すっかり疲れた私はこの日「道の駅 北前船松前」の駐車場で車中泊をした。