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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北海道の黎明期 北を目指した男たち~合田節を堪能~

2022-12-17 12:43:46 | 講演・講義・フォーラム等

 合田一道節は健在だった。豊富な知識を縦横に操り、聴いている者たちを合田ワールドに誘う話術は健在だった。松浦武四郎、坂本龍馬、榎本武揚と北海道との関りを興味深くお話された。今回もまた合田一道節を堪能した。

   

 12月14日(水)午後、ほっかいどう学「かでる講座」の今年度第9回(今年度最終回)の講座が開催され参加した。このところ確か3年続けて「かでる講座」の最終回は合田一道氏が講義されていて、私は毎回楽しみにしている講座である。

 合田氏についてはご存じ方も多いと思われるが、新聞記者からノンフィクション作家に転じた方である。氏は主として明治以降の近現代における北海道に関わる史実を掘り下げて文章として著している方である。そのため明治以降の北海道の開拓に関わった人達については特に造詣が深く、それらの人々のことを語るといつも興味深いお話を聴くことができるのだ。

   

 今回もその延長線上で「古文書に見る北を目指した3人の男~武四郎、龍馬、榎本~」と題してお話された。講義ではその他の方々についても言及されたが、本レポートでは3人に絞って合田氏が話されたことをレポートしたい。

        

 まず、松浦武四郎である。彼は蝦夷地を探検すること実に6度に及ぶ。そのうち前半3回は自費で、後半の3度は幕府に召し入れられ幕命によって踏査している。武四郎は蝦夷地を探検するたびにその眼差しはいつも先住民族のアイヌに注がれていたことは有名な話であるが、合田氏もそのことを強調された。その最も顕著な例が明治新政府となって、武四郎は開拓使の開拓判官を命じられるが、その時蝦夷地の新たな地名を新政府から命ぜられた。その際、新政府からの条件として「道」という字を加えることだったそうだ。武四郎は数あった候補の中から「北加伊道」という地名を推薦したという。その中の「加伊」という字であるが、それは武四郎が蝦夷地を探検していた時にアイヌ民族の古老から「カイ」とは「この国に生まれた者(=アイヌ民族)」という意味であることを知らされたことから、アイヌ民族に対する武四郎の並々ならぬ思いが込められていたことが想像される。結局は「加伊」は「海」に改められて現在の北海道となり、武四郎は「北海道の名付け親」とも称されている。 ※ (=アイヌ民族)の表記は私が独自に記したものである。

 武四郎は開拓使の中で島義勇と開拓判官を務めたが、上司である島と意見を違えたことから開拓判官を辞し、江戸に戻ったという。武四郎には役人などより在野で自由に活動する方が似合っていたのかもしれない。

     

 続いて、坂本龍馬である。坂本龍馬が蝦夷地に渡った形跡がないのは史実でも明らかである。しかし、龍馬はその生涯で少なくとも2度にわたって蝦夷地に渡ろうと試みたという。その一つは元治元年(1864)勝海舟率いる神戸海軍塾の塾頭となって、海軍塾所属の黒龍丸を駆って蝦夷地開発を目論んだ矢先、京都にて池田屋騒動に遭遇し多くの同志を失い、龍馬自身も負傷してしまうという不運に見舞われ計画は頓挫してしまう。
 いま一つは、慶應3年(1867)龍馬は海援隊隊長となり、伊予国大洲藩所有の「いろは丸」を借用し海援隊の業務を遂行するとともに、密かに蝦夷行も企図していたという。ところが「いろは丸」は4月23日の初航海において紀州和歌山藩の明光丸と衝突して沈没してしまうという「いろは丸事件」に遭遇してしまい龍馬の思いは雲散霧消してしまった。

 そしてこの年の11月、龍馬は近江屋において刺客に襲われ絶命し、蝦夷地開発の夢は断たれてしまった。龍馬の思いは、龍馬の甥である坂本直寛に引き継がれ、直寛は北見(野付牛)、浦臼で開拓の鍬を奮ったことは多くの人が知るところである。

          

 そして榎本武揚である。合田氏は榎本のことを当初は、「新政府転覆などと吹聴し、多くの若者を死に追いやり、自分だけは生き残って新政府の中で要職を務めるといったとんでもない奴」と見ていたが、榎本を調べるほどに「榎本とは稀にみる傑物である」と考えるに至ったという。そう思い至ったわけは、榎本は箱館戦争の敗戦が必至な情勢の中、五稜郭開城前夜に自決を図ったが部下に阻止されたという事実が分かったこと。そして敗戦後に刑務所に収監された際には「ないない節」などというまるで刑死を恐れぬ戯れ歌を作っていたことなどから、けっして助命を願うような人物ではないことを知ったという。

 そして黒田清隆の進言により明治政府に取り立てられてからは、日本国が危機に陥った時には必ず顔を出していた、ということから榎本への見方が180度変換したそうだ。例えば、ロシアとの間で難しい交渉だった樺太・千島交換条約を締結したこと。さらには、明治22(1889)年2月、大日本帝国憲法発布式にあたっては儀典掛長を務め、同日に暗殺された森有礼の後任として文部大臣を務めた。森有礼は日本の学校制度を創設するために奔走した人物だったが、実質的には榎本が学校制度の普及を担ったといえるかもしれない。

 以上、北海道に関わった三傑物について合田氏は氏独特の見方もまじえ、興味深くお話された。講座は上記の3人の他、島義勇、美泉定山坊、飯沼貞吉、大岡助右衛門、熊坂長庵、などといった人物にも及んだが、それらについてのレポは省略する。 

 合田氏は本年88歳だという。声にやや張りが失われたかな?と思われたが、まだまだ矍鑠とした感じである。できれば来年もまた、合田氏の興味深いお話を伺いたいと思っている。



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