北区歴史と文化の八十八選巡り第5弾は長く続いた北大関連最後の1件と、その他の3件である。「北海道大学農学部第二農場」、「旧藤高等女学校校舎(キノルド記念館)跡」、「北27条公園通り」、「いのち」の4件をレポする。
〈21〉北海道大学農学部第二農場
※ 第二農場内に入った直後に見られる光景です。
北海道大学構内の中央道路を北に向かって進んだ突き当りに広がるのが「北海道大学農学部第二農場」である。私はこれまで何度も訪れているが、2019(平成31)年に「さっぽろの古を訪ねて Ⅱ」の現地学習で訪れた時には、担当の教授から直接お話をうかがう機会があり、特に印象に残っている。主要な建物である模範家畜房(モデルバーン)、種牛舎、穀物庫(コーンバーン)などの内部も見せていただき、詳しい説明もいただいた。それらが現在の北海道の畜産の基礎を築いたことがよく理解できた。
※ 牝牛舎です。
※ 模範家畜房(モデルバーン)です。
次に紹介する文章は、第二農場についてより理解できる文章だと考え紹介することにした。
1876(明治9)年、札幌農学校の開校とほぼ同時に開設された農黌園(のうこうえん)が北大農場の原型だ。初代教頭クラーク博士の指導によって造られ、近代的な大規模洋式有畜農業を日本に導入するための拠点となった。第二農場には北海道の風土にあった酪農のモデル農場の姿が当時のまま残されている。その中心を担うのが1階が家畜舎、2階が干草置き場の模範家畜房。クラークの後を継いだ第2代教頭のホイーラーが、マサチューセッツ農科大学農園の家畜房にならって設計をした。風船構造と呼ばれる建築様式で、屋根を支える柱がないのが特徴的だ。1969(昭和44)年、国の重要文化財に指定。
※ 場内に植わっている大木です。(ハルニレ?)
〔住 所〕 北区北18条西8丁目 北海道大学構内
〔訪問日〕 5月10日
〈22〉旧藤高等女学校校舎(キノルド記念館)跡
「旧藤高等女学校校舎(キノルド館)」は1924(大正13)年に造られた木造3階建ての校舎である。設計はスイス人建築家のマックス・ヒンデルという人だそうだ。
※ 旧藤高等女学校校舎の一部を再現した「キノルド資料館」です。
校舎は、高等女学校から、学制が次々と変わり女子中学校、女子校などと変ったけれど藤学園のシンボルとして長く使われてきたそうである。しかし、老朽化により維持が難しくなり2001(平成13)年に解体された。現在は跡地に「旧藤高等女学校校舎(キノルド館)」の資材の一部を使いスケールを小さくして2003(平成15)年に「キノルド資料館」が建てられている。
※ 「キノルド資料館」の屋上中央には旧藤高等女学校のシンボルタマネギ型のポールが立っていました。
私が訪れた時、校舎のシンボルでもあった中央の塔にタマネギ型をしたポールが立っていたので「あれっ?」と思ったが、上記のように復元したものだと分かり納得した。なお、内部は許可さえ得られれば見学可能のようだが、現在は「コロナ禍のために中止している」とのことだった。
ところで私は「キノルド」ということについても何も知識がなかった。調べてみると、キノルドとは「キノルド司教」のことで、藤学園の創始者だということが分かった。
いつか機会があれば資料館の内部も見学させていただきたいと思っている。
※ 旧藤高等女学校校舎について説明する北区制作の説明板です。
〔住 所〕 北区北16条西2丁目 藤学園内
〔訪問日〕 5月10日
〈23〉北27条公園通り
「北27条公園通り」は、もともとは旧札幌飛行場の防風緑地帯を利用した通りである。
※ 「北27条公園通り」の西6丁目側の入口のところです。左の大木のようなものはコンクリート製のモニュメントです。
1926(大正15)年に旧北海タイムス社が報道用のために北24条以北を滑走路として使用していたことに始まり、その後は東京への定期航空路を持つ飛行場として使用されたり、戦時中は陸軍飛行場としても利用されたりしたが、終戦と共に閉鎖されたところを活用したものである。
※ こちらは公園通り中央付近にあった時計付きのモニュメントです。
通りは10mくらいの幅でおよそ400m続く通りで、通りには公園のように樹木が植えられたり、ベンチや東屋、花壇などが配されたりして、周辺住民にとっては貴重な憩いの場となっていることを伺わせた。市の当局も造成時はかなり予算を投じて整備されたものと推察できた。ところが、今回訪れてみると、全体が雑草で覆われているのが何とも残念に思えた。
※ 木々が生い茂り通りに木陰を造っていますが、その下の雑草が気になります。
※ 子どもたち作成の壁画が並んでいますが、ここも雑草が気になります。
恩恵に浴している周辺町内会などがリードして、住民自らが整備するようなことは考えられないのだろうか?なんとも残念な光景に思えた。
※ 通りは写真のように大仰な塀に囲まれていました。
〔住 所〕 北区北26条西5丁目~8丁目
〔訪問日〕 5月25日
〈24〉いのち
※ 若草公園の入口から公園全体を望んだところです。
彫像「いのち」は北27条公園通りから1条分南に寄った「若草公園」内にあった。作者は羊ヶ丘展望台の「丘の上のクラーク像」の作者として知られる坂胆道氏の作品である。
※ ここも雑草が目立ち過ぎです。奥に母子像が見えます。
母子像「いのち」は、1976(昭和51)年8月に幼児が交通事故で亡くなったことをきっかけに、その翌年交通安全を祈願して北第二町内会が中心となって建てたものだそうだ。
※ 母子像「いのち」の全体像です。
母子像の傍には北区が作製した説明板に次のように説明されていた。(一部省略)
「この『いのち』の像は昭和52年(1977年)に建立されたが、10年にわたる風雪で腕や足に亀裂が入るなど傷んできたため、昭和63年ブロンズで作り直したもの。母とその両手に抱かれ、もみじの葉のような手を広げ、大空を見上げる幼児の姿は、見る人の心を強く引き付ける」(当初の像はポリエステル樹脂製だった⇒筆者註)とあった。
※ 像の裏側から公園全体を望んだところです。
〔住 所〕 北区北25条西7丁目 若草公園内
〔訪問日〕 5月25 日