「亀ヶ岡石器時代遺跡」と「田小屋野貝塚」は隣接して存在する遺跡なのだが、縄文人が活躍した時代が違うことから、二つの遺跡を違った遺跡として登録されたようである。
私は当初この二つの遺跡を10月16日(月)に予定していた。ところが前日になって、月曜日は土・日に開放(開館)している公共施設は、月曜日は閉鎖するということに気が付いたのだ。私は慌てて15日の朝に「伊勢堂岱遺跡」から二つの施設に問い合わせたのだが「予定どおり閉鎖する」とのことだった。そこで急遽予定を変え、北秋田市の「伊勢堂岱遺跡」の見学を終えた後、遠路つがる市の二つの遺跡まで車を飛ばして訪れたというわけである。
「亀ヶ岡石器時代遺跡」と「田小屋野貝塚」は、ガイドを予め予約しておかなくとも、現地ではボランティアガイドがその都度対応してくれるという仕組みのために、予約の電話を入れなかったことも私が凡ミスを犯した原因の一つだった。
私は二つの遺跡を訪れる前に「つがる市木造亀ヶ岡考古資料室」を訪れた。資料室は遺跡からはかなり離れたところに建っていたが、展示物も充実しているとは言い難かった。つがる市にはもう一つ「つがる市縄文住居展示資料館カルコ」という施設があるが、そちらの方に主たる資料が展示されているのかもしれない。私は今回、そちらを訪れることは時間的に無理だった。
※ 「つがる市木造亀ヶ岡考古資料室」の外観です。
※ 資料館の内部の展示です。古風な形式の展示でした。
「考古資料室」の後、遺跡へ向かった。すると「亀ヶ岡石器時代遺跡」の傍に「縄文遺跡案内所」があり、そこを伺うと直ぐに空いていた女性のボランティアガイドが私の担当として案内してくれた。
「亀ヶ岡石器時代遺跡」は、縄文晩期にあたる紀元前1,000年~400年にあたる時期に栄えた遺跡であり、大規模な共同墓地が発掘された遺跡として知られている。また縄文晩期ということから土器や土偶などに精緻で複雑なものが多数発掘されている。その中でも大型の「遮光器土偶(愛称:しゃこたん)」は「亀ヶ岡石器時代遺跡」の象徴ともいえる存在となっている。
私はまず「縄文遺跡案内書所」のすぐ隣にある「亀ヶ岡石器時代遺跡」から案内された。
※ 「亀ヶ岡石器時代遺跡」の前には大きな遮光器土偶のモニュメントが立っていました。
遺跡は台地上に100基を超えるお墓が発掘されたということだったが、それらは全て発掘前の状態に復されていて、写真の被写体となる情景は皆無だった。
※ 遺跡から発掘された楕円形や円形に掘りくぼめたお墓(土坑墓) を再現したお墓が展示されていました。
※ 縄文人にとって貴重な食料だったクリの木(実)はどの遺跡でも植えられていました。
続いて、「亀ヶ岡石器時代遺跡」から10分弱歩いたところにある「田小屋野貝塚」に向かった。こちらも遺跡の方は、縄文前期の遺跡ということで紀元前4,000~2,000年前の遺跡だそうだ。竪穴建物跡、墓、貯蔵穴、貝塚などが確認されたというが、現場は「〇〇跡」と記された看板があるだけで、全て土で覆われていた。
※ 「田小屋野貝塚」では、このような看板が立てられ発掘跡を説明していました。
※ こちらは人骨が発掘されたときの状況を写真で説明していました。
二つの遺跡共に写真の被写体としてはイマイチだったが、案内してくれたボランティアガイドの方が生き生きとしてガイドしてくれていたことが印象的だった。そのことに触れると、彼女は「全国から訪れる遺跡ファンの方々に説明することは、とてもやり甲斐があります」と語っていた。これまで出会ったボランティアガイドの方々も同様な思いでガイドされていることをうかがわせてくれた。
最後に遺跡から弘前市のホテルに戻る前に、「木造駅」を訪れた。「木造駅」は、駅舎が愛称「しゃこたん」で知られる遮光器土偶の巨大モニュメントが有名であるが、私もその傍に立って巨大にモニュメントに驚いたのだった。
※ 「木造駅」の「しゃこたん」を模した巨大なモニュメントです。
ガイダンス施設「つがる市木造亀ヶ岡資料室」 青森県つがる市木造立岡屏風山195
◇入館料 200円
ガイダンス施設「つがる市縄文住居展示資料館カルコ」青森県つがる市木造若緑50-1
◇入館料 200円