医師でありながら未開の北海道開発に尽力された関寛斎の存在を私は知らなかった。しかも関寛斎が開拓を担ったところは、私が住んでいたところからそれほど遠くないところだったことが判り、私の不明を恥じるばかりだった。
1月16日(火)夜、北海道自治労会館において「労文教リレー講座」の第4回講座が開催され参加した。第4回目の講座は「医師で開拓者・関寛斎の足跡を辿って見えること」と題して旭川大学名誉教授の竹中英泰氏が講義された。
時は1902(明治35)年、関寛斎73歳にして当時未開の大地十勝管内・陸別町(当時斗満と称する地)に入植し、10年間苦闘し開拓した土地を農民に分け与えたようだ。
※ 講師を務められた竹中英泰氏です。
講師の竹中氏は専門が経済であったため関寛斎のことなどは知らなかったそうだ。ところが旭川大を退職後、旭川医大において学生たちに「地域社会論」を講じることになったという。つまり医師の卵たちに北海道のことをより良く知ってもらう講座を担当することになり、いろいろと調べているうちに医師でありながら、北海道開拓を担った関寛斎のことを知るに至ったそうだ。
竹中氏が調べる中、関寛斎について書かれた書籍には次のようなものがあったそうだ。
◇徳富蘆花著「みみずのたはごと」(1913年)
◇司馬遼太郎著「胡蝶の夢」(1979年)
◇城山三郎著「人生 余熱あり」(1989年)
◇陸別町郷土叢書「原野を拓く 関寛 開拓の理想とその背景」
(1991年)
◇高田都著「あい 永遠に在り」(2013年)
◇合田一道著「評伝 関寛斎1830-1912 極寒の地に一身を捧げた老医」(2020年)
※ 合田一道氏著の「評伝 関寛斎」の表紙です。
実に多くの方が関寛斎の偉業を取り上げ、書籍として発刊していることがわかる。
講座では、これらの著書の肝心な部分を取り上げて紹介していただいた。
それによると関寛斎は1830(天保1)年に生を受けたがけっして恵まれた幼少期ではなかった。しかし、自らの努力と周りの助けを受けながら医師としてオランダ医学の修業を積み、幕末には幕府軍の前線病院長(頭取)として負傷者たちの救済に活躍し、明治に入ってからは禄籍を返済して町医者として30年間にわたり地域医療に尽くしたものの、自らの理想に燃えて73歳の高齢にして未開の大地陸別の開拓に挑んだという。
当時の陸別というと、汽車は帯広までしか走っておらず、帯広からは徒歩で陸別まで向かったそうだ。開拓の苦闘の様子についての紹介はなかったが、おそらく想像に絶する困難に遭遇しながらのものではなかったろうか?陸別というと、現在でも日本一の極寒の地として有名だが、当時もそうしたことが伝わっていて寛斎は敢えてそうした困難な地を選択したのだろうか?関寛斎のことをいち早く書籍に著した徳富蘆花は、寛斎が入植した6年後に実際に陸別(斗満)を訪れ、5日間過ごすなど寛斎と交友があったことを著したという。
寛斎は陸別での10年間の苦闘の末に83歳で死去されたそうだが、寛斎の息子の又一は札幌農学校に学び、アメリカ農法を身に付けたことで寛斎の思想とは違ったそうだが、陸別を開拓するという遺志を繋いでいったそうである。
※ 陸別町内の公園に設置されている関寛斎の在りし日を伝える銅像です。
ところで私は管内は違えども、国鉄池北線(今は廃線)に乗ると僅か2駅しか離れていなかったオホーツク管内の置戸町に若き頃に10年間勤めていた経験がある。そんな近くで暮らしていながら関寛斎の偉業のことについては全く知ることなく過ごしてきた。自らの不明を恥じるばかりである。
陸別の道の駅は「関寛斎資料館」を兼ねているという。機会があればぜひ立ち寄り、関寛斎の偉業について深く知りたいと思っている。