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北区歴史と文化の八十八選巡り №9

2022-06-23 12:33:26 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

※ 蔵出し第2弾である。この「北区歴史と文化の八十八選巡り」も6月6日に終えていたものである。なかなかレポする機会がなかったが無理して今日のレポとして押しこんだ。

  北区歴史と文化の八十八選巡りはこれまで1度に4ヵ所ずつレポしてきたが、 今回は史跡などが新琴似神社境内一か所に集中的に保存されていることもあり9つの史跡等を一挙レポすることとした。

〈●〉新琴似神社

   

   

 新琴似神社自体は八十八選に選定されているところではない。しかし、9つの史跡が一か所に設置されていることから、その場所等について簡単にレポしたい。

 神社の場所はJR新琴似駅、北区体育館の直ぐ近くに樽川通に面して立地している。比較的麻生の繁華街から近いところにある。

   

 比較的広い境内の一隅が神社の駐車場となっているが、その周囲に「新琴似屯田兵中隊本部」の復元建造物を中心として各石碑等が点在している。

33〉屯田兵もやい井戸跡

   

 新琴似神社境内に保存されている史跡の中で唯一その跡地の特定に苦労したのが「屯田兵もやい井戸跡」である。境内のあちこちを捜し歩いたが、それらしき跡が分からなかった。諦めかけた時に、新琴似屯田兵中隊本部の建物の前に来た時、そこに「屯田兵もやい井戸跡」の説明板が立てられていた。ということは中隊本部の近くにそれがあったことを示しているものと考えた。形跡はまったくなかった。説明板によると屯田兵屋の4戸に一つの共同井戸ということだから、跡地そのものではないのかもしれないが、一応その地を井戸跡とすることにしたい。その説明板には次のように書かれていた。

 明治20年(1887年)新琴似に九州出身を中心とする屯田兵146戸が入植。その生活を支えた井戸は4戸の共同使用で、風呂が併設されていた。「もやい」とは「共同」の意味。この井戸は水源までモウソウ竹を打ち込んだもので、水が30センチほど自噴していた。竹の長さは約30メートル、継ぎ目にはコンブが巻かれていたと言われている。

〔住 所〕 北区新琴似8条3丁目 新琴似神社境内

〔訪問日〕 6月6日 

34〉東繁造君学勲碑(ひがししげぞうくんがくくんひ)

   

 この石碑以降は、いずれも新琴似神社境内を取り囲むように建立されていたので、説明板の文章だけを紹介することにする。

 東繁造は大正9年(1925年)●●当時の東大教授三田定則の門下生として血液の鑑別方法を研究。それまで鑑別しにくかった人と家畜類の血液を早く確実に見分ける科学的鑑別法に成功。この方法は、恩師と自分の名をとって「三田・東法」と名づけた。この碑は、氏の功績を称えるため、昭和35年(1960年)に当時の東大名誉教授古畑種基らによって建立された。 

〔住 所〕 北区新琴似8条3丁目 新琴似神社境内

〔訪問日〕 6月6日

35〉新琴似兵村記念碑

   

 新琴似地区は、明治20年(1887年)、屯田兵の入植によって開かれた地で、開村50年を記念して昭和11年(1936年)に建立された。既に開村5年を記念して建立された「新琴似開村記念碑」が神社の東側にあったが、永年風雪にさらされて、文字の解読も困難になったところから、新たにこの碑を建立したものである。
 札幌軟石の外棚を巡らしコンクリートの基礎、この上に幅3.5メートル、高さ5メートル、厚さ30センチメートルの板石を建てている。裏磁には、入植屯田兵220名の氏名が刻印されている。 

〔住 所〕 北区新琴似8条3丁目 新琴似神社境内

〔訪問日〕  6月6日

〈36〉新琴似の馬魂碑  

    

 この馬魂碑は、大正8年(1919年)に光明寺境内(新琴似7条1丁目)建立されたが、昭和50年(1975年)に新琴似神社境内に移された。開拓時代、その家の手足となって働いた農耕馬を供養するためのもの、当時の主な農家は、自分の愛馬を弔うため、それぞれ自分の農地の片隅などに建てたりしていたが、これを総括し「馬頭観世音」として奉遷したものである。

〔住 所〕 北区新琴似8条3丁目 新琴似神社境内

〔訪問日〕 6月6日

37〉吹田晋平歌碑 

   

 吹田晋平歌碑(本名 菅 進)は、明治35年(1902年)8月19日に新琴似に生まれ
永年にわたり歌人として、さらには政治家として地域の発展に貢献した。55年間にわたり歌人として数々の秀作を発表する一方、札幌市議会議員を通算6期24年勤め、市政の発展と地域の振興に尽力した。この碑は、氏の功績に報いるため有志により昭和47年(1972)に建立された。

〔住 所〕 北区新琴似8条3丁目 新琴似神社境内

〔訪問日〕 6月6日

38〉新琴似「百年碑」

   

 明治20年(1887年)の屯田兵入植に始まる新琴似地区は、当時、あまりにも厳しい自然環境に耐えきれず、離農する人たちが後を絶たなかったと言われている。●●ま●●の地に望みをかけて踏み止った少数の屯田兵と、新天地を求めて新たに渡ってきた一般の入植者の不屈の精神によって、昼なお暗きうっそうたる原始林が切り開かれ、良好な農耕地から住宅地へとめざましい発展を遂げた。この記念碑は、開基百年を記念して昭和61年(1988年)に建立された。

「百年碑」には添え書きがあり、「この地に育つ 若人よ 今日を創りし 先人の 自耕自拓の 精神を 継いで努力の 人となれ」と刻まれていた。

〔住 所〕 北区新琴似7条3丁目 新琴似神社境内

〔訪問日〕 6月6日

39〉新琴似屯田兵中隊本部

   

 この建物は、明治20年九州各地の士族146戸の入植(翌21年に74戸を補充)により発足した新琴似兵村(屯田兵第1大隊第3中隊)の本部として、明治19年に建てられました。 明治36年の屯田兵役解除後、新琴似兵村会の共有財産として引き継がれ、明治44年の兵村解散後は、新琴似屯田親交組合、新琴似兵村部落会、新琴似自治会、新琴似町内会、琴似産業組合、新琴似中学校仮教室、札幌市新琴似出張所等に使用されるなど、時代の変遷を経て昭和40年11月、札幌市に寄付されました。その後、昭和43年度から昭和46年度にかけて、創建当初に復元するための改修工事が行われ、昭和49年4月20日には歴史的価値が高く建築構造の上からも貴重な建造物として、札幌市有形文化財に指定されました。
 建物の構造は木造、小屋裏部屋付き平屋建て、全体の形は素朴でおおらかさがあり、玄関出入口、窓回り等の細部、小屋組などに当時流行した洋風木造建築の特徴を良く残しています。現在札幌市では、新琴似屯田兵中隊本部保存会の協力を得て建物を保存管理しています。(札幌市有形文化財) 

 訪れた日は月曜日だった。建物の開館日が火・木・土の週3日のため入館は叶わなかった。しかし、私は以前に入館した経験があった。内部は中隊長室、下士官集会室、軍医室、事務室などからなっており、現在はそこが屯田兵に関する資料が展示されている。私は「思っていたほど大きな建物ではないなぁ」というのが正直な感想だった。                                 

〔住 所〕 北区新琴似7条3丁目 新琴似神社境内 

〔訪問日〕  6月6日 

〈40〉新琴似「拓魂」碑  

   

 新琴似開基百年を記念して、開拓を支えてきた先日と、共にあった農業組織の歴代の会長を顕彰するもので、昭和61年(1986年)に建立された。

 日高産の赤石で、正面に「拓魂」の2文字と碑文、表面には歴代の組合長の名前が刻まれている。 

〔住 所〕 北区新琴似7条3丁目 新琴似神社境内 

〔訪問日〕 6月6日

41〉新琴似「開村記念碑」

            
 新琴似地区は、明治20年(1887年)、屯田兵の入植によって開かれた地で、開村5年を記念して建立された。しかし、この開村記念碑が永年風雪にさらされ、文字の解読も困難になったことから、先人の開拓の功を後世に伝えるために、神社の西側に「新琴似兵村記念碑」として昭和11年(1936年)に再建されている。

 ※ 現地で撮った写真を整理したところ、この「開村記念碑」の写真を撮ることを失念していたようだ。よってこの写真だけウェブ上から拝借してしまうことになった。

〔住 所〕 北区新琴似8条3丁目 新琴似神社境内

〔訪問日〕 6月6日 



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