きっと、いいことあるよね!

母(sake)と息子(keke)の日々の記録。
お出かけ写真と料理など。

まるで南の島

2013-12-01 | 父の記録と母の思い出
昨日は父の病院に行くともう食事は始まっていて、介護士さんが「今日はよくお口が開いてますよ」と言う。

ほんとにその通りでパクパク食べている。
食事はおかずもご飯もおかゆみたいになったけれど、食欲は旺盛だ。
今日はクリームシチューだったらしい。
(形が崩れているが、匂いがそれっぽい。)

外の景色はもう秋が過ぎて冬になろうとしている。
ここに通ってから、秋が冬が何回巡ってきたのだろう。
桜が咲いている季節もあったっけ。

父の部屋に掛かっていた港の絵。

最初は元気で、目は見えなかったけれど「sakeだよ」と言うと、それが娘だと分かっていた頃。
隣にいるシアワセばあさんと笑っていた頃。
賽銭箱の歌を歌っていた頃。

そう思わなかったけれど、あの頃は元気だった。
そんなことを思い出す。

食事に2時間掛かっていた頃は「もうだんだん食べることができなくなりここからフェイドアウトか。。。」と言う思いがよぎったが、また今日の顔を見ると元気そうである。

食欲がいいと「食べられるうちにおかずやご飯をなるべく食べさせたい」と思って、ついついお茶を後回しにしてしまい、咳き込ませてしまった。
そして、その時だけ目を開ける様子がカメさんみたいである。

人間なんて偉そうにしているけれど、生き物の中の一部に過ぎないのだなぁ、なんてことを考えてしまうのは、こんな時である。
生き物として何もできないまま生まれて、何もできなくなって死んでいく。

いったい、生きている間に人は何ができるのだろう。
器が大きな人達は、生きているうちにいろんな事業や名誉な事を残すことができるのだろう。
私はとてもそんな、後に残すことはできない。
死んでしまえば、もうあとは灰になるだけだが、好きなようにはやらせてもらった。

大学も行かせてもらえて、結婚も好きにさせてもらえて(しかも2回も)、その後も恋愛ができたり、いろんなことをさせてもらえた。
今で言えば、旦那が居ないお陰で家事をしなくて済み、その分本を読んだりドライブができた。
日本人の女として生まれて、こんなに自分の思うままに生き、自由に時間が使えた人はもしかしたら珍しいかもしれないぞ。

父に食事を与えているうちに、自分の今が「旬」のような気がしてきた。

平日会社に行ってそれなりに頼りにしてもらえて、土曜は父の所に行く。
夕飯は子供と一緒に食べることができる。
休みは好き勝手に本を読んだりドライブしたりできる(ほど元気)。

心だけはまるで南の島にいるようである。
純粋に「こっちに行きたい!」と思った瞬間にいつもパタパタ飛んでいったからだろうか。

こうしてその瞬間その瞬間好きに生きていくのも悪いもんじゃないな。
そのうち死ぬんだろうけど、悔いはないように思う。