津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

肥後入国・・家臣の採用

2008-12-12 13:31:18 | 歴史
 寛永十年三月十九日付榊原飛騨守の長文の書状がある。忠利の肥後入国後の仕置きに関するものである。その中に次のような一条がある。(綿考輯録・巻三十五)
   庄林隼人・出田宮内両人かゝへ被成候由、可然人之様ニ承及候
 
 共に加藤清正に仕えた重臣である。加藤時代の「熊本城之図」をみると、大手門前に庄林隼人の屋敷が見える。忠利は肥後入国に当たり城内の案内役をこの隼人に命じ、その後もこの屋敷に住まわせたと伝えられる。
        ja.wikipedia.org/wiki/庄林隼人
        www.m-network.com/sengoku/haka/shobayashi450h.html (お墓)
 出田宮内(少輔・武房)はかっての隈本城城主出田筑後守三郎秀信の五代の孫である。加藤忠広改易後は柳川に住したが、上記の如く寛永十年三月召し出されて鉄炮五十挺頭でニ千石を賜わったが、翌年正月病死している。

 先の榊原飛騨守の書状には、新参者を抱えるよう助言している。
   新参者もよきほと御かゝへ被成候へく候、御人数すくなく御もち被
   成と思召候ハゝ、御人数もかたく御座可有と存候


 かって加藤家にあった志水与助(日下部与助)が、旧加藤家家臣の召しだしに尽力したと伝えられる。急激な領地の拡大に家臣不足という問題が生じている。
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光尚の兄妹たち

2008-12-12 12:39:47 | 歴史
 光尚の幼名は六丸・小六などとされる。六番目の子供だからとされるが、兄姉五人の名前は家譜には登場しない。綿考輯録編者小野武次郎は「光利(光尚)君御姉兄五人にて追々御早世と見江申候、然ニ其比は万事留書様之事ニ心を用たる人稀なる時代にて、五人の御子様御誕生の事もしるし伝へたるもの無之・・・」と書き残しているが、まったく其のとおりなのであろう。それでも武次郎は諸資料から五人の御子を調べている。

       +---光千代 慶長十五六年比千代姫様御腹に御一男誕生
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       +--- 男子 元和二年誕生 辰の字可被用思召
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       +---   元和三年生まれか 寛永六年正月の御書「かめふく不便なる仕合・・・」
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       +---   生年不詳              同上
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       +---御姫御懐妊の記事(三齋の手紙による) 元和五年
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 忠利----+---光尚 元和五年九月十九日・豊前中津生
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       +--- 女子 藤 寛永十一年生 松平下野守忠広室
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       +--- 宗玄(玄喝食)寛永十二年生 住大徳寺
       |
       +--- 女子 竹 寛永十四年生 有吉頼母佐英長室
       |
       +--- 尚房 寛永十四年生 新知二万石
       |
       +--- 元知 寛永十八年生 南条大膳元信養子 養母細川與五郎興秋女鍋
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