寛永十年三月十九日付榊原飛騨守の長文の書状がある。忠利の肥後入国後の仕置きに関するものである。その中に次のような一条がある。(綿考輯録・巻三十五)
庄林隼人・出田宮内両人かゝへ被成候由、可然人之様ニ承及候
共に加藤清正に仕えた重臣である。加藤時代の「熊本城之図」をみると、大手門前に庄林隼人の屋敷が見える。忠利は肥後入国に当たり城内の案内役をこの隼人に命じ、その後もこの屋敷に住まわせたと伝えられる。
ja.wikipedia.org/wiki/庄林隼人
www.m-network.com/sengoku/haka/shobayashi450h.html (お墓)
出田宮内(少輔・武房)はかっての隈本城城主出田筑後守三郎秀信の五代の孫である。加藤忠広改易後は柳川に住したが、上記の如く寛永十年三月召し出されて鉄炮五十挺頭でニ千石を賜わったが、翌年正月病死している。
先の榊原飛騨守の書状には、新参者を抱えるよう助言している。
新参者もよきほと御かゝへ被成候へく候、御人数すくなく御もち被
成と思召候ハゝ、御人数もかたく御座可有と存候
かって加藤家にあった志水与助(日下部与助)が、旧加藤家家臣の召しだしに尽力したと伝えられる。急激な領地の拡大に家臣不足という問題が生じている。
庄林隼人・出田宮内両人かゝへ被成候由、可然人之様ニ承及候
共に加藤清正に仕えた重臣である。加藤時代の「熊本城之図」をみると、大手門前に庄林隼人の屋敷が見える。忠利は肥後入国に当たり城内の案内役をこの隼人に命じ、その後もこの屋敷に住まわせたと伝えられる。
ja.wikipedia.org/wiki/庄林隼人
www.m-network.com/sengoku/haka/shobayashi450h.html (お墓)
出田宮内(少輔・武房)はかっての隈本城城主出田筑後守三郎秀信の五代の孫である。加藤忠広改易後は柳川に住したが、上記の如く寛永十年三月召し出されて鉄炮五十挺頭でニ千石を賜わったが、翌年正月病死している。
先の榊原飛騨守の書状には、新参者を抱えるよう助言している。
新参者もよきほと御かゝへ被成候へく候、御人数すくなく御もち被
成と思召候ハゝ、御人数もかたく御座可有と存候
かって加藤家にあった志水与助(日下部与助)が、旧加藤家家臣の召しだしに尽力したと伝えられる。急激な領地の拡大に家臣不足という問題が生じている。