忠利は九日夜深く山鹿(山鹿市)を出立、巳の刻には熊本城天守に上ったとされる。寛永九年(1632)の今日十二月九日のことである。
先達而追々差越候御家中之面々、所々警固御番等之外は各御途中ニ罷出、供奉して御城ニ至られ候、追手の御門外ニ御城番之御衆御出迎有之、忠利君御下乗、此処二而請取渡之御挨拶済候と、御先足軽頭下知して火縄之火を消させ候、其時御門之蹴放しを御頂門々を過、御玄関の上ニ而石川主殿頭殿より、御城内武具・財宝の書記等御受取被成、天守之上段ニ御登被成候、時ニ巳ノ刻比なり
忠利君御装束ニ而、大手門前ニ新敷莚を敷、御門之蹴放シを御頂戴之御心ニ而御辞遊候
爰二而中尾山本妙寺の方を御尋被成、清正の廟所を遥拝なされ、多年御入魂なりしか不思議二当城を賜り候と、御挨拶ニ被及候と也
作家・司馬遼太郎はかって、細川護貞氏の案内で熊本城を訪ねている。氏の著「春灯雑記」に次のように書いている。
護貞氏がふと、「忠利は、あの天守台の台上にのぼって、はるかに清正の
廟所にむかって平伏したそうです」といわれた。
この忠利の所作も、おそらく三齋忠興の助言によるものだったろう。
さらに忠利は声をあげて、
いまからあなたのお城をあずからせていただきます。
といったというのである。はじめてきく話だった。
このことばが、おそらく肥後の人心を、春の海のように凪がせたはずである。
こうして肥後入国のながい一日が暮れていくのである。それから366年が経過した。
先達而追々差越候御家中之面々、所々警固御番等之外は各御途中ニ罷出、供奉して御城ニ至られ候、追手の御門外ニ御城番之御衆御出迎有之、忠利君御下乗、此処二而請取渡之御挨拶済候と、御先足軽頭下知して火縄之火を消させ候、其時御門之蹴放しを御頂門々を過、御玄関の上ニ而石川主殿頭殿より、御城内武具・財宝の書記等御受取被成、天守之上段ニ御登被成候、時ニ巳ノ刻比なり
忠利君御装束ニ而、大手門前ニ新敷莚を敷、御門之蹴放シを御頂戴之御心ニ而御辞遊候
爰二而中尾山本妙寺の方を御尋被成、清正の廟所を遥拝なされ、多年御入魂なりしか不思議二当城を賜り候と、御挨拶ニ被及候と也
作家・司馬遼太郎はかって、細川護貞氏の案内で熊本城を訪ねている。氏の著「春灯雑記」に次のように書いている。
護貞氏がふと、「忠利は、あの天守台の台上にのぼって、はるかに清正の
廟所にむかって平伏したそうです」といわれた。
この忠利の所作も、おそらく三齋忠興の助言によるものだったろう。
さらに忠利は声をあげて、
いまからあなたのお城をあずからせていただきます。
といったというのである。はじめてきく話だった。
このことばが、おそらく肥後の人心を、春の海のように凪がせたはずである。
こうして肥後入国のながい一日が暮れていくのである。それから366年が経過した。