荒木左助儀當年拾五ニ成由候間去年如申渡候親助左衛門知行
三百石當所務より可遣之者也
正保弐年十月十八日 御印
奉行中
惣郡奉行中
荒木助左衛門:荒木高則の子太郎助、十三歳にて田辺城籠城・後助左衛門
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
稲津九十郎儀當年十五ニ成候間去年如申渡候親九郎兵衛知行
之内弐百石當所務より可遣之者也
正保弐年十月十八日 御印
奉行中
惣郡奉行中
稲津九郎兵衛:日向シハス崎居城、伊藤家立退き、慶長十年加藤清正に仕え五十人扶持・現米500石、
その後加増す都合1000石余、忠広改易後寛永九年細川忠利に仕え1000石鉄炮頭、正保元年九月致仕
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病死仕御侍衆妻子付
七月二日ニ病死仕
■知行百五十石 三宅勘十郎
勘十郎儀久敷者ニ而候へともせかれかたわ者にて候ハゝ跡を可遣様無之候間上知ニ可仕候 されとも當年ハ
妻子共ニいつものことく扶持方を可遣也 御印
右之女房
せかれ壱人
右之せかれ當年歳十六ニ罷成もうもくニ而御座候
この時期身障者に対する状況は過酷である
八月廿三日ニ病死仕
■五十人扶持 三池左兵衛
右之女房
未御目見不仕 三池小膳
三池氏一族だと考えられるが、同氏系図に左兵衛なる人の名前は見えない。
八月廿八日ニ病死仕
■知行百石 岩間清次
清次儀久敷者ニ候せかれ清太夫ニ清次知行并家屋敷無相違可遣候也 御印
右之女房
当年歳廿四ニ罷成候
御目見仕 岩間清太夫
むすめ壱人
九月八日ニ病死仕候
■知行弐百七拾石 沖津宗也
宗也知行上知ニ仕妻子ニ当年者扶持方如定ニ可仕候也 御印
右之女房
知行三百五拾石 沖津作太夫
当年歳十七
沖津八助
右八助かたわものニ而御座候故御目見も不仕候由
むすめ一人
作太夫は宗也三男、二男弥五右衛門は嫡家を継ぎ後細川三齋に殉死
十月十四日ニ病死
■知行百五十石 住江八左衛門
八右衛門儀親以来久敷者ニ候間せかれ甚太郎ニ親知行并家屋敷無相違可遣候也 御印
右之女房
当年歳十六ニ罷成候
御目見仕候 住江甚太郎
当年歳八ッ
住江左太郎
当年生れ申候
男子壱人
むすめ弐人
以上
正保弐年十月ニ十日
三百石當所務より可遣之者也
正保弐年十月十八日 御印
奉行中
惣郡奉行中
荒木助左衛門:荒木高則の子太郎助、十三歳にて田辺城籠城・後助左衛門
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稲津九十郎儀當年十五ニ成候間去年如申渡候親九郎兵衛知行
之内弐百石當所務より可遣之者也
正保弐年十月十八日 御印
奉行中
惣郡奉行中
稲津九郎兵衛:日向シハス崎居城、伊藤家立退き、慶長十年加藤清正に仕え五十人扶持・現米500石、
その後加増す都合1000石余、忠広改易後寛永九年細川忠利に仕え1000石鉄炮頭、正保元年九月致仕
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病死仕御侍衆妻子付
七月二日ニ病死仕
■知行百五十石 三宅勘十郎
勘十郎儀久敷者ニ而候へともせかれかたわ者にて候ハゝ跡を可遣様無之候間上知ニ可仕候 されとも當年ハ
妻子共ニいつものことく扶持方を可遣也 御印
右之女房
せかれ壱人
右之せかれ當年歳十六ニ罷成もうもくニ而御座候
この時期身障者に対する状況は過酷である
八月廿三日ニ病死仕
■五十人扶持 三池左兵衛
右之女房
未御目見不仕 三池小膳
三池氏一族だと考えられるが、同氏系図に左兵衛なる人の名前は見えない。
八月廿八日ニ病死仕
■知行百石 岩間清次
清次儀久敷者ニ候せかれ清太夫ニ清次知行并家屋敷無相違可遣候也 御印
右之女房
当年歳廿四ニ罷成候
御目見仕 岩間清太夫
むすめ壱人
九月八日ニ病死仕候
■知行弐百七拾石 沖津宗也
宗也知行上知ニ仕妻子ニ当年者扶持方如定ニ可仕候也 御印
右之女房
知行三百五拾石 沖津作太夫
当年歳十七
沖津八助
右八助かたわものニ而御座候故御目見も不仕候由
むすめ一人
作太夫は宗也三男、二男弥五右衛門は嫡家を継ぎ後細川三齋に殉死
十月十四日ニ病死
■知行百五十石 住江八左衛門
八右衛門儀親以来久敷者ニ候間せかれ甚太郎ニ親知行并家屋敷無相違可遣候也 御印
右之女房
当年歳十六ニ罷成候
御目見仕候 住江甚太郎
当年歳八ッ
住江左太郎
当年生れ申候
男子壱人
むすめ弐人
以上
正保弐年十月ニ十日