津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

島原の陣--決戦の日・・3

2008-12-23 19:01:16 | 歴史
松井勢の活躍
興長家士橋本角右衛門も弐人を討、中山藤兵衛も浜の手にて弐人突留候、松井角兵衛本氏田中、松井志摩子組の足軽をつれ来り、賊弐人を鑓付る内壱人は長鑓を以投衝にしけるを、角兵衛是をはり除ヶ、手の下に突伏けれハ、組の小頭野田長右衛門走寄て首を打落す、右之外余の備よりすゝミ来り勢ひに乗て働候間、賊徒三丸に堪かめ、二丸につほミ強く防候、寄之ハ二の丸を乗取候へとて、田渡海手の方へ攻詰るを新太郎見て、二の丸の御先乗可仕と告て東の隅の屏を破らせ乗らんとする時、下津半助・松井三左衛門・志水加兵衛・田中市兵衛等も来り相働き候ニ、内より夥しく矢石を発し防候間、加兵衛ハ鉄炮に中り死し、三左衛門ハ深手負て引退く、下津か小頭河村清助と云者正元が甲を曳、唯今鉄炮を出したるハ慥に貴公を目当にいたし候と云て引動す所に、炮玉来て河村を打倒す、正元ははやく引起し候へ共、急所にて忽死す、田中市兵衛ハ矢創を被り候

其外松井一手大略深田を渉て二の丸の犬走ニ着、田原清兵衛ハ城戸越に賊を突倒すに、余賊助けて田原か鑓を切折候間、柄を杖にして屏を越んとする内に、草野善兵衛国乗と名乗て二郭に先登いたし、中川権内有重も不劣名乗て入る、続て松井右衛門盛勝・下津半助一明・入江三大夫・小寺杢左衛門・田中三郎左衛門・田原清兵衛定勝・同嫡子角十郎綱房十六歳等一同ニ乗入候、一揆共群りてひかえけるか、先なる草野にハ懸らす中川ニ懸り候、権内相突に突倒し、其身も股に疵を被りなから首を取らむとせし所に、余賊来て小腹をつくを刀にてうち払ふ、其内に味方大勢屏を越ける間、徒党共はるかに引取候、中川ハ首を討捨にして鑓を取候へとも、二ヶ所の深手甚いたミ小屋に帰る、草野も敵三人にわたり合、壱人を突留といへ共、壱人の鑓にさゝれ苦痛にたへす引取候、
興長手ニ而中川権内二の丸一番鑓也、松井新太郎もやかて乗入に、敵三十人はかりかたまり、妻子を先立而本城の方へ退くを鉄炮を放しかけ追打にすゝむ、生地武右衛門進て二の丸に着時、敵ハ頻に矢石を発し、味方にハ折節鉄炮無之間、やれ此方の鉄炮も打候へと度々声をかけすゝむ、海手の方に屏の少破れ口ある所より入は小屋に人声有、廿間計奥に敵廿人余さゝへ居候故、手前の家を心許なく思ひ、何れも見合する体なるを、武右衛門馳通り前ミけるに、大勢の中より敵弐人鑓参ふと云てかゝり来る、弐間はかりに成て、壱人の敵武右衛門を投突にするをはらひのけて、前に立たる敵とからち合突倒す、家来塩田次兵衛走り寄て首を取鼻をかく、松井右兵衛も一所ニ来てかせき候、山本七郎右衛門・松井角兵衛と共に足軽をすゝめ来り二丸に入るに、賊刀を振てかゝるを唯一鑓に突伏る、入江三大夫・下津半助も鑓を合敵を討、浅田左兵衛も敵弐人仕留たりとて角兵衛に見せ、荒木権七も賊弐人突捨候、但当手ニ而二の郭先登ハ興長に相究る也
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光尚の疱瘡・・そして弥栄

2008-12-23 12:24:10 | 歴史
 寛永十一年(1634)十二月十三日、六丸(光尚)は疱瘡に罹っている。悪くすれば死にいたる病である。元和五年(1619)の生まれであるから、16歳の時のことである。細川家の嫡子であり、将軍秀忠養女の子であるから、「早速台聴にも達し御医師衆御付被成、御懇之上意にて上使日々に御出也」となった。又細川家と親しい春日局からも「毎日御使色々御音信」があり、忠利は御年寄衆に使者を立てて御礼申上げたことを報告している。
 国許の忠利又八代の三齋にも急の使者が立てられる。しかし幸いにも大事には至らず、十二月廿六日「御酒湯灌せられ」ている。これらもそれぞれ使者を以って報告がなされている。江戸に於いての新年は嬉しいものであったろうし、国許では無事を祈っての正月であった。廿六日の「御酒湯」の報は正月五・六日には忠利の許へ報告が届き、又三齋へも報告された。お祝いのため熊本・八代に於いて「御能御興行」が成されている。

 祝福に満ちた寛永十二年の細川家のお正月である。
そしてこの年の七月二十三日元服、肥後守光利と名乗り、侍従に叙任する。
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