慶安元年十二月の末家臣下村五兵衛は、幕臣曽我丹波守の内意を得て国許の家老宛てに、急々に小早(舟)を仕立てて以下の書状を送っている。
一筆致啓上候、今朝曽我丹波様江私を御呼被成、
被仰候ハ、異国より巻物其外商物差越、此物売払
申候代金二て兵粮日本ニ而買調申度由申候ニ付、
為 上意被 仰出候ハ、何程ニ而も買調可申旨、
上意二而御座候由、井上筑後様より丹波様江被仰
進候、左候ハゝ九州之米之直段過分ニ上り可申と
思召候、大阪之直段も同前ニ上り可申候間、 殿
様御米むさと払申間敷之旨、被 仰付候間、則其
趣仁保太兵衛・志賀少兵衛両人江も具ニ申渡候、
両人被申候も右之様子各様へ御注進早々申上可然
由被申候ニ付、態御小早下し申候、恐惶謹言
十二月廿一日 下村五兵衛
曽我丹波とは、丹波守又左衛門古祐(ひさすけ)で、寛永11年から万治元年まで大阪西町奉行を勤めている。細川家とは大変親しく、このような大事な情報がもたらされるのである。米の値段に影響するとされる異国船による米の買い付けとは、どのような量であったのだろうか。相場の動きに神経をそばだたせる有様は、いつの時代も共通したものであるようだ。
一筆致啓上候、今朝曽我丹波様江私を御呼被成、
被仰候ハ、異国より巻物其外商物差越、此物売払
申候代金二て兵粮日本ニ而買調申度由申候ニ付、
為 上意被 仰出候ハ、何程ニ而も買調可申旨、
上意二而御座候由、井上筑後様より丹波様江被仰
進候、左候ハゝ九州之米之直段過分ニ上り可申と
思召候、大阪之直段も同前ニ上り可申候間、 殿
様御米むさと払申間敷之旨、被 仰付候間、則其
趣仁保太兵衛・志賀少兵衛両人江も具ニ申渡候、
両人被申候も右之様子各様へ御注進早々申上可然
由被申候ニ付、態御小早下し申候、恐惶謹言
十二月廿一日 下村五兵衛
曽我丹波とは、丹波守又左衛門古祐(ひさすけ)で、寛永11年から万治元年まで大阪西町奉行を勤めている。細川家とは大変親しく、このような大事な情報がもたらされるのである。米の値段に影響するとされる異国船による米の買い付けとは、どのような量であったのだろうか。相場の動きに神経をそばだたせる有様は、いつの時代も共通したものであるようだ。