「賤ケ岳七本槍」の一人・平野長泰の甥・平野源太左衛門は加藤清正の配下に在った。加藤清正、福嶋正則らが大名に列せられる中、長泰は不遇をかこっている。長泰の父は平野長治、清原宣賢の孫だとされる。そのような関係であろうか、元和七年長泰は加藤清正家中に在る甥・平野源太左衛門を、細川家に召し出して欲しいと言ってきている。加藤家を慮っての忠利の当惑振りが次の文書である。
平遠江(平野長泰)より、肥後に居申候おい(平野源太左衛門)、我等ニ抱候様にと被申
候間、肥後殿構無之候ハヽ、抱可申由約束仕候、此儀にて言上仕候キ、肥後殿構ふか
く御座候而、同心不参候故、おいの儀は成間敷と被存、其子両人御座候を、我等ニ抱さ
せ申度由被申越候へ共、宗立(三齋)様へ御かためを、申上候間、成不申由申候へハ、
又 宗立様へ被申上之由承候、肥後殿事之外構ふかく被申候間、其子抱候ハヽ、肥州満
足ニハ御座有間敷かと存候間、何とそ御分別を以、遠州へ被仰遣候様ニと、可被申上候事
元和七年八月廿八日書状案 (大日本近世史料・細川家史料 8-51)
召し出しの時期がはっきりしないが、その後源太左衛門は肥後に詳しい者として召し出されている。
加藤清正に仕へたりし平野源太左衛門長九と云者を、肥後案内として豊前ニ被召寄、御知
行千石被下御鉄炮三拾挺御預ヶ被成、嫡子平野弥五右衛門ニ三百石被下、親之添頭被
仰付候、熊本御城の要害其外委細源太左衛門申上候と也
(綿考輯録巻三十三 忠利公・上p286)
細川幽齋清原宣賢の孫、平野長泰は父が清原宣賢の孫だという。
そんな関係であろうか、細川家には平野氏一族が多く召し出されている。
平遠江(平野長泰)より、肥後に居申候おい(平野源太左衛門)、我等ニ抱候様にと被申
候間、肥後殿構無之候ハヽ、抱可申由約束仕候、此儀にて言上仕候キ、肥後殿構ふか
く御座候而、同心不参候故、おいの儀は成間敷と被存、其子両人御座候を、我等ニ抱さ
せ申度由被申越候へ共、宗立(三齋)様へ御かためを、申上候間、成不申由申候へハ、
又 宗立様へ被申上之由承候、肥後殿事之外構ふかく被申候間、其子抱候ハヽ、肥州満
足ニハ御座有間敷かと存候間、何とそ御分別を以、遠州へ被仰遣候様ニと、可被申上候事
元和七年八月廿八日書状案 (大日本近世史料・細川家史料 8-51)
召し出しの時期がはっきりしないが、その後源太左衛門は肥後に詳しい者として召し出されている。
加藤清正に仕へたりし平野源太左衛門長九と云者を、肥後案内として豊前ニ被召寄、御知
行千石被下御鉄炮三拾挺御預ヶ被成、嫡子平野弥五右衛門ニ三百石被下、親之添頭被
仰付候、熊本御城の要害其外委細源太左衛門申上候と也
(綿考輯録巻三十三 忠利公・上p286)
細川幽齋清原宣賢の孫、平野長泰は父が清原宣賢の孫だという。
そんな関係であろうか、細川家には平野氏一族が多く召し出されている。