津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

天草島原の乱--決戦前日

2008-12-17 16:27:59 | 歴史
 (寛永十五年二月)廿六日(松平)伊豆守殿諸将を集め被仰候は、今日の火攻ハ雨天なれハ無是非相止候、殊ニ大雨なる故今明日の中晴候とも、速にハ火攻の功も有ましきか、徒党共最早数十日の籠城にくるしミ、粮物ニつまり、玉薬とほしく、自然と守りも怠る体なれハ、一向二明後廿八日晴雨にかゝわらす惣攻可有との事也、其時黒田氏追手搦手の寄手、越矢の遠慮可有かとの論あり、忠利君被聞召、越矢に是を遠慮とハ、さしかゝる敵をも討ましき事可有也、其上見上ての城乗なる故、うしろに越スハ矢勢尽て人を傷るニ至るましきかと被仰、其外思召寄とも委ク被仰述候間、上使を初諸将各其儀ニ同せられ候

 廿六日、為上使三浦志摩守殿・村越七郎左衛門殿 一ニ七郎右衛門 有馬ニ御着

      松平信綱  ja.wikipedia.org/wiki/松平信綱

 寛永十五年二月廿七日、天草島原の乱は幕府軍の一斉攻撃により一気に終結に向う。
その長い一日を「綿考輯録」の記事から、ご紹介しようと思っている。全文では約100頁に及ぶもので、「百間石垣からええもさいさい」の心境でお届けしようと思う。著作権の問題がありどの程度までご紹介できるか・・・?

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする