山崎久丞ニ合力米為加増一倍ニ成遣候都合参拾石永遣者也
正保弐年正月廿二日 御印
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八木弐百石朝山斎助遣候間可相渡候也
正保弐年正月廿九日 御印
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花畠奥ニ居候かちニ銀子五拾目残者並ニ増候而遣候間自當年永可相渡候也
正保二年二月朔日 御印
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弐拾石ニ五人扶持方花畑奥ニ居候はまニ遣候永可相渡候也
正保弐年二月朔日 御印
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高瀬三十郎ニ切米拾石三人扶持方永可遣者也 御印
正保弐年二月七日
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外川武左衛門ニ切米拾石ニ三人扶持方可遣也
正保弐年二月七日 御印
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去年・當年續テ御供ニ被召連候衆
小笠原備前守
林外記
有吉雅楽
平野九郎右衛門
田中左兵衛
藤崎作左衛門
高見権右衛門
堀平左衛門
竹内七郎右衛門
岡田甚五左衛門
明石玄碩
永野慶巴
不破十丞
冨澤権佐
東條新左衛門
大塚甚左衛門
山中又兵衛
柏原新右衛門
宗像少右衛門
足見(垂水)惣兵衛
高村安丞
山形半介
稲生七郎兵衛
益田孫太夫
永井安太夫
坂井七郎右衛門
吉田加右衛門
松崎勘兵衛
大槻勘丞
右之衆跡扶持被遣衆ニ而御座候 以上
正保二年
二月七日 御印
奉行中
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萱野甚斎ニ切米三石加増遣候間永可遣候
正保弐年二月十二日
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高本慶宅京都ニ学文ニ遣候迄留守中五人扶持方可遣也
正保弐年二月十三日 御印
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(以下正保弐年二月十四日分一括記載・・管理人)
一 橋詰三郎左衛門儀内検ニ精を出し候通聞届候為褒美銀子弐枚遣候間可渡也
一 服部市左衛門奉公能仕通聞届候間切米三石増遣候今迄之切米共ニ都合十石
ニ〆永可遣者也
一 片岡半丞・廣吉傳丞・野田猪兵衛此三人奉公能仕通聞届候間褒美銀子三枚
宛可遣也
一 慶壽院ニ弐拾人扶持方遣候間永可相渡者也
一 元島七兵衛ニ切米五石為加増遣之候際今迄之切米共二拾五石ニ〆永可遣也
一 北村徳左衛門儀奉公能仕通聞届候際為褒美今迄之借米拾壱石余捨可遣者也
一 山田五郎兵衛奉公能仕通聞届候間為褒美銀子弐枚可遣也
一 植木新右衛門儀数年代官ニ精を出通聞届候間為褒美切米五石増遣候間今迄
之切米共二都合拾五石永可遣也
一 山田九兵衛奉公ニ精を出候通聞届候間切米ニ石壱人扶持増遣候間今迄之切
米共都合拾石参人扶持方永可遣也
一 天野屋藤左衛門妻子ニ拾人扶持方永可遣也
一 青地久左衛門ニ合力米百俵可遣也
一 池邊宗仙ニ参人扶持二切米拾石永可相渡者也
一 宮崎五郎兵衛・首藤次郎左衛門・田中半兵衛江戸供ニ連候間跡扶持如定可
遣也
一 成田十左衛門ニ合力米百俵可遣也
一 奥ニ召置候女房達とくニ當年より切米五石為加増遣候間永可相渡也
一 北村吉十郎ニ切米拾石参人扶持遣之候間永可相渡也
一 蝋蠋懸七郎兵衛奉公ニ精を出通聞届候間切米五石増遣候今迄之切米共都合
八石永可遣也
一 池邊太郎左衛門奉公ニ精を出通聞届候間扶持方壱人増遣候今迄之扶持方共
都合三人扶持永可遣也
一 高橋仁右衛門用水之普請ニ精を出通聞届候為褒美銀子弐枚遣候間可渡也
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正保弐年正月廿二日 御印
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八木弐百石朝山斎助遣候間可相渡候也
正保弐年正月廿九日 御印
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花畠奥ニ居候かちニ銀子五拾目残者並ニ増候而遣候間自當年永可相渡候也
正保二年二月朔日 御印
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弐拾石ニ五人扶持方花畑奥ニ居候はまニ遣候永可相渡候也
正保弐年二月朔日 御印
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高瀬三十郎ニ切米拾石三人扶持方永可遣者也 御印
正保弐年二月七日
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外川武左衛門ニ切米拾石ニ三人扶持方可遣也
正保弐年二月七日 御印
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去年・當年續テ御供ニ被召連候衆
小笠原備前守
林外記
有吉雅楽
平野九郎右衛門
田中左兵衛
藤崎作左衛門
高見権右衛門
堀平左衛門
竹内七郎右衛門
岡田甚五左衛門
明石玄碩
永野慶巴
不破十丞
冨澤権佐
東條新左衛門
大塚甚左衛門
山中又兵衛
柏原新右衛門
宗像少右衛門
足見(垂水)惣兵衛
高村安丞
山形半介
稲生七郎兵衛
益田孫太夫
永井安太夫
坂井七郎右衛門
吉田加右衛門
松崎勘兵衛
大槻勘丞
右之衆跡扶持被遣衆ニ而御座候 以上
正保二年
二月七日 御印
奉行中
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萱野甚斎ニ切米三石加増遣候間永可遣候
正保弐年二月十二日
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高本慶宅京都ニ学文ニ遣候迄留守中五人扶持方可遣也
正保弐年二月十三日 御印
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(以下正保弐年二月十四日分一括記載・・管理人)
一 橋詰三郎左衛門儀内検ニ精を出し候通聞届候為褒美銀子弐枚遣候間可渡也
一 服部市左衛門奉公能仕通聞届候間切米三石増遣候今迄之切米共ニ都合十石
ニ〆永可遣者也
一 片岡半丞・廣吉傳丞・野田猪兵衛此三人奉公能仕通聞届候間褒美銀子三枚
宛可遣也
一 慶壽院ニ弐拾人扶持方遣候間永可相渡者也
一 元島七兵衛ニ切米五石為加増遣之候際今迄之切米共二拾五石ニ〆永可遣也
一 北村徳左衛門儀奉公能仕通聞届候際為褒美今迄之借米拾壱石余捨可遣者也
一 山田五郎兵衛奉公能仕通聞届候間為褒美銀子弐枚可遣也
一 植木新右衛門儀数年代官ニ精を出通聞届候間為褒美切米五石増遣候間今迄
之切米共二都合拾五石永可遣也
一 山田九兵衛奉公ニ精を出候通聞届候間切米ニ石壱人扶持増遣候間今迄之切
米共都合拾石参人扶持方永可遣也
一 天野屋藤左衛門妻子ニ拾人扶持方永可遣也
一 青地久左衛門ニ合力米百俵可遣也
一 池邊宗仙ニ参人扶持二切米拾石永可相渡者也
一 宮崎五郎兵衛・首藤次郎左衛門・田中半兵衛江戸供ニ連候間跡扶持如定可
遣也
一 成田十左衛門ニ合力米百俵可遣也
一 奥ニ召置候女房達とくニ當年より切米五石為加増遣候間永可相渡也
一 北村吉十郎ニ切米拾石参人扶持遣之候間永可相渡也
一 蝋蠋懸七郎兵衛奉公ニ精を出通聞届候間切米五石増遣候今迄之切米共都合
八石永可遣也
一 池邊太郎左衛門奉公ニ精を出通聞届候間扶持方壱人増遣候今迄之扶持方共
都合三人扶持永可遣也
一 高橋仁右衛門用水之普請ニ精を出通聞届候為褒美銀子弐枚遣候間可渡也
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