忠利は小倉から四十里の道のりを四日で熊本に入っている。豊前猪膝で最初の宿を取り冷水(ひやみず)峠越えをして府中泊、南関、山鹿をへて12月9日の吉日故の入国の旅程である。九州自動車道植木インターの西側に「味取」という地域がある。大変な人数の行列で時間的余裕も無かったと思われるのだが、「味取」の地で新たな町を作るように指示をしている。新に興されたこの町は大変栄えたというが、数度火事に見舞われ町も衰退したらしい。その味取を過ぎ足を進めると、一行の遠く眼前に熊本城が目に入っただろう。その感慨は如何なものであったろうか・・・新しい希望に満ちた旅は、疲れも感じさせぬ晴れがましいもので在った事だろう。
肥後入国後の忠利は城内本丸で生活をしていたらしいが、「御繕無之候而ハ御住居難被成候」状態なので、入国翌年の寛永十年二月十九日には「御花畑」館に移っている。現在の花畑公園がその屋敷跡の一部だが、数本の巨大な楠木が往時を偲ばせている。その年の九月参勤、十一年八月十三日久しぶりに下國している。即お城での生活が始まったが、なにかと不便ということで一両年後「御花畑」に移ったとされる。
まだこの時期は藩主・家臣のあいだもざっくばらんな所もあったらしい。
「御家老并人持・御物頭以下までも、心次第朝昼晩共に御広間に罷出居申たる由、忠利君ハ毎朝御楊枝なと御くわへ、其まゝニ而御広間へ御出被成候而、罷出居候面々之内、何某何某今朝御相伴仕候へなと被仰付候由・・・」
この居館については、熊本大学名誉教授北野隆先生の研究に詳しいが、綿孝輯録に於いても数度の建て増しが行われたことが記されている。当初は玄関に式台がなく、箱段が置かれていたというような記述をみると、肥後細川藩草創期の慌しさが見て取れて微笑ましくなる。
まだこの時期は藩主・家臣のあいだもざっくばらんな所もあったらしい。
「御家老并人持・御物頭以下までも、心次第朝昼晩共に御広間に罷出居申たる由、忠利君ハ毎朝御楊枝なと御くわへ、其まゝニ而御広間へ御出被成候而、罷出居候面々之内、何某何某今朝御相伴仕候へなと被仰付候由・・・」
この居館については、熊本大学名誉教授北野隆先生の研究に詳しいが、綿孝輯録に於いても数度の建て増しが行われたことが記されている。当初は玄関に式台がなく、箱段が置かれていたというような記述をみると、肥後細川藩草創期の慌しさが見て取れて微笑ましくなる。