千利休の死にあたりその介錯役を勤めたのは、研究書や小説などでは殆どが蒔田淡路守だとしている。村井康彦氏の名著「千利休」もそうだし、野上弥生子氏の小説「秀吉と利休」も同様である。WEBサイトで検索してもほとんどがそうなっている。過日ご紹介した「利休最後の半年」の著者、土田隆宏氏は大変勉強をなさっていて、介錯役は細川忠興家臣・山本正倶だとされている。その出典は綿考輯録であることは間違いない。
綿考輯録・巻十に、千利休に対して「秀吉公猶も憤り深く、終に切腹可被仰付ニ定り候、依之忠興君より山本三四郎正倶を介錯人に被仰付(以下略)」とある。私は蒔田淡路守は秀吉がつかわした検使役であり、介錯役は山本正倶であったと信じて疑がわない。
山本正倶は名を三四郎(三左衛門)という。その正倶については、
「三四郎親掛ニ而、三斎様御側に被召仕、御知行弐百石被下置、(父親)三郎右衛門隠居仕候節、家督四百石拝領、有馬御陳にも御供仕、綱利君御代まて相勤、追々御加増千石被下候」とある。
父親山本三郎右衛門については、「元亀四年岩成主税を御攻被成候時、御家に来り御合力十八人扶持被下候、直に忠興君に仕て御懇也、九曜の御紋御付被成候後、夫迄の御紋六ッ鉄線を政倶に被下、定紋二仕候と申伝候、丹後御入国之節、弐百石拝領、度々の戦功あり、関原御陳後、御召之御鎧・鞍置馬を被下、御知行四百石に被成下(一ニ豊前ニ而五百石)その後加々山隼人被誅候時三郎右衛門に被仰付、友次の御刀拝領仕候、三斎様御剃髪の時、山本も剃髪、宗の字を被下宗覚と改申候、三斎様御逝去両年前ニ病死」と綿孝輯録・巻五は紹介する。中務とも称し、観世小次郎元頼の弟子であったという。
細川幽齋の田邊城籠城に際しては、村野庄助 ・坂井半助 ・篠山五右衛門(飯河豊前守)・久代右近右衛門 ・平田因幡・平田彦三・寺井道運・神戸喜右衛門等とともに北海手の守備にあたった。
子孫は1500石を領し、番頭や用人などを勤めた。
綿考輯録・巻十に、千利休に対して「秀吉公猶も憤り深く、終に切腹可被仰付ニ定り候、依之忠興君より山本三四郎正倶を介錯人に被仰付(以下略)」とある。私は蒔田淡路守は秀吉がつかわした検使役であり、介錯役は山本正倶であったと信じて疑がわない。
山本正倶は名を三四郎(三左衛門)という。その正倶については、
「三四郎親掛ニ而、三斎様御側に被召仕、御知行弐百石被下置、(父親)三郎右衛門隠居仕候節、家督四百石拝領、有馬御陳にも御供仕、綱利君御代まて相勤、追々御加増千石被下候」とある。
父親山本三郎右衛門については、「元亀四年岩成主税を御攻被成候時、御家に来り御合力十八人扶持被下候、直に忠興君に仕て御懇也、九曜の御紋御付被成候後、夫迄の御紋六ッ鉄線を政倶に被下、定紋二仕候と申伝候、丹後御入国之節、弐百石拝領、度々の戦功あり、関原御陳後、御召之御鎧・鞍置馬を被下、御知行四百石に被成下(一ニ豊前ニ而五百石)その後加々山隼人被誅候時三郎右衛門に被仰付、友次の御刀拝領仕候、三斎様御剃髪の時、山本も剃髪、宗の字を被下宗覚と改申候、三斎様御逝去両年前ニ病死」と綿孝輯録・巻五は紹介する。中務とも称し、観世小次郎元頼の弟子であったという。
細川幽齋の田邊城籠城に際しては、村野庄助 ・坂井半助 ・篠山五右衛門(飯河豊前守)・久代右近右衛門 ・平田因幡・平田彦三・寺井道運・神戸喜右衛門等とともに北海手の守備にあたった。
子孫は1500石を領し、番頭や用人などを勤めた。