津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

島原の陣--決戦の日・・4

2008-12-25 16:10:55 | 歴史
有吉頼母佐(英貴)の手
頼母佐手ニ而槙嶋掃部助後半之允は本道惣勢込相候を見て、浜手より横きりに一番に乗こまんといたし候処、差物城戸二支急ニ難乗に、家来高橋三郎兵衛と申者後ロより差物を抜取候間、早速乗込名乗候へとも、其砌ハ諸人も乗込候由御帰陣之砌、河尻ニ而御直ニ、嶋又左衛門跡之御番頭被仰付、頼母佐者共も松井家に不劣、家司有吉次大夫吉正・葛西惣右衛門一正・嫡子伊織一致等はやく二丸に着、鉄炮頭斎木半右衛門・添頭菅沼三左衛門安弘二丸に向、鉄炮打合乗込、岡部形右衛門も同く組足軽を引廻しつよく矢数を打せ、弓頭木部清太夫二の城戸に至り乗込むとするに、敵大勢にて防クを鉄炮にて壱人打倒候ニ、側より上帯のはつれをしたゝかに射て敵ハ忽逃入候、痛而なから堪居て下知をなす、組の足軽矢先を揃射立、敵須戸口を引取故二の丸に乗入、田代三右衛門同所にて働く、篠原角左衛門易政も二の木戸に着しに、組の足軽後れたるを待揃る内に鑓を合、壱人を突伏る、
米田与七郎か家人戸村角兵衛・岡沢兵左衛門等一所に在相働、中松伝助ハ鑓を合ける時左のひぢを鉄炮に打抜れなから敵を討取、本郷縫殿も馳着て鑓を合突伏る、戸田十之允・菅五大夫・原田三大夫・萩野兵助・石田権右衛門等早く二の丸に乗入、頼母助も乗入て下知し、馬験奉行井上左門は城戸の左より早く乗込、鑓を合、敵の脇腹を突に、鑓をたくりて刀を抜かけ候を左門鑓を打振候へハ倒れけるを、若党走り寄て首打落す、其時横合より弐人突かゝるを直に振返りて突伏る内に、側より壱人の敵を突伏る者有り、左門見かへり我等先に突たるそと言をかくる、是やまだ五郎左衛門一之也一ニ五左衛門、五郎左衛門ハ走着と直ニ右の通にて又外ニ首一ッ取候、
葛西惣右衛門父子ハ城戸の右脇より入て賊二三人突捨、菅五大夫・戸田十之允・渡部伝左衛門等敵を鑓付、首を取、武藤十左衛門ハ持鑓の奉行して側長柄を揃て突入、壱人討取、団六左衛門重祖は鑓を合、敵の肩を突けれ共、鑓を捨て逃入故打泄し、直に本丸の方にすゝミ候、大山三十郎・斎木喜太郎・持筒頭中山半左衛門組の鉄炮を卒、乗入、岡田作左衛門も同入て敵を突伏る、松野右京家人江藤治郎右衛門・水野一ニ水谷五郎兵衛等一所に働き候
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屯田兵

2008-12-25 10:12:13 | 歴史
 屯田兵として熊本県人が北海道に入植したのは、明治18年江別兵村に11家族の方が入られたのが最初である。以降18回にわたり、都合219家族が順次入植された。最終は明治33年険渕北兵村の4家族である。明治22年篠路兵村に46家族が入られたのが一番多い。その中のM家、U家は奇しくもご家族が神風連の挙に参加され、又西南の役に参加されている。
残されたご家族にどういう思いがあったのか、不安と希望を胸に秘めての北海道への旅であったろう。我が史談会の某氏のご先祖様もそのお一人であったと聞いた。奇しき事と思いながら名簿を眺めながら、「有禄士族基本帳」と照合していると、かなりの数が確認できる。これは情報として発信しなければならないと考えて、現在準備中である。

 除籍謄本などをとっても、明治初年当時とは中々結びつかない。有禄士族基本帳がそのつなぎ役を果たすことがある。そのためにもなるだけ早くUPしたいとがんばっている。
コメント (5)
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