津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

諸悪莫作 衆善奉行

2008-12-20 20:24:50 | 徒然
 永青文庫が所蔵する墨蹟の中に、一休宗純の書「諸悪莫作 衆善奉行」がある。雄渾達筆なこの書は「諸悪莫作 衆奉行」と「善」の文字が抜けていて、後で小さな文字で脇に書き加えている。展覧会「大名細川家-文と武の軌跡」の記念誌によると、「釈迦十大弟子の一人で多聞第一とされた阿難尊者が、ある人の仏の究極の教えとは何かという問いに答えた偈「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」からとった二句」と解説して有る。
「悪いことをするな、善いことをせよ」という意味だそうだが心しなければ成らない。

 沢庵和尚が忠利に贈った書について、綿考輯録に次のような記事が有る。

          沢庵より忠利君江書被進候語章
            無心益有好 無事是貴人
            諸悪莫作 衆善奉行
            忠利公       沢庵
       右之黒(墨)蹟、寛永十八年三月廿八日中庵掛物ニして江戸江持参有之

 どうやら此の二句は、僧籍の方の揮毫の言葉として、もてはやされていたのかも知れない。二つ並べて展観できないものかと思ったりする。
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島原の陣--決戦の日・・2

2008-12-20 18:20:21 | 歴史
光利(光尚)君ハ仕寄場御巡見の為先手へ御越被成候内、鍋嶋手より乗候様子ニ付、此方も三の丸ニ乗込せ候へと諸手へ御下知被成、早速御馬を被出候、興長も鍋嶋家の様子聞と其儘打出、持筒頭橋本角右衛門・中山藤兵衛に上箭を打せ円居をすゝむ、

頼母佐も早速組衆に下知し、側に有もの十四人を連て駆出、隊下手の者我先と争ひ米田与七郎一番に打出る

立允主ハ折節栖楼にあかり敵城の様子御覧候所、二の丸出丸に煙立、無程早鐘を突、鍋嶋城乗との注進有之候ニ付、早速望楼より下りて打出、馬をはやめられ候家光公より三齋君御拝領小黒と申馬也、志方半兵衛元政・熊谷権大夫・同新太郎・神足少五郎・芦田十左衛門元辰・佐方源助後源右衛門・井戸文三郎重行後次郎左衛門と改、追々加増して七百石、隠居名宗中と云、一ニ文三郎を十三郎と有ハ誤なるへし

御昇奉行興津右兵衛後弥五右衛門・原伝右衛門御昇弐本・馬験壱本しほりてかつかせ、小頭能勢藤右衛門差添、持筒頭上羽又右衛門・同組之者七人・坂本角之允浪人分等一同ニ打出る、三の丸大井楼の辺ニ而御下り立、御見計被成、頼母佐持口より三の丸江御乗込候ニ、最早敵も見へ不申、熊本・柳川の兵あらそひすゝミ、二の丸の大手口に仕掛候、立允主此様子跡より御覧候而、先手の参る方ハ鍋嶋乗申跡ニ而候、其上越中様御持口ハ所々堀切有て足場悪敷、幅弐間深さ五六尺程の堀切之道上ニほやを作りかけ、柱なしに破風より出入いたし候様子也、道筋不自由之上味方之人数二三合、彼是御供の面々立允主を見損シおくれ候ニ付、纔の御人数ニ而御押候也、御昇ハ三の丸塀下ニ而張立、塀を御越候へ共、敵居不申候ニ付しほりて持候也、三淵内匠も早速内出るに、竹束稠くして城戸不開内に、後より大勢押来候間、昭正竹束の牛を越て立上り、家人兵藤六之允・横田杢十郎に申付、竹束押開かせ飛出る、手まハりの者十弐人相したかふ、無程家人彼是きたり馬をも打せ候間、鞭を加へてかけ通り候、初め竹束を越候時、大鳥毛輪貫差物竹にかゝり抜たるを、家人金光角左衛門取て持来候へとも、是をさすにいとまなかりしと也
長岡右馬助ハ浜手巡見して有しか、火急成事故組衆を立、仕合次第二乗入らるへしと下知し、有合士卒七八人を卒し、浜手の口より乗入、清田石見・志水新之允等隊下に指揮し我劣らしと打出ル、小笠原備前一備ハ廿六日夜仕寄場の当番にて今日ハ小屋々々に休ミ居候に、城乗を聞と等しく少もおくれす走出る、殊に藤本勘助七十三才・河村伊右衛門ハ有攻の老士なれハとて、備前か旗を預け置ける故、藤本早く使を遣し御旗を出され候へと云送るニ、旗ははや出しける由なれハ速に三の丸に入、備前か大旗を見付、押立て先にすゝミ候、其外諸頭・御馬廻・倍士・浪人我先と打出候へハ、多クハ列を抜け、組頭に離れて思ひ/\ニ三の丸ニ乗込候
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