この写真は、高梨素子著「後水尾院初期歌壇の歌人の研究」に掲載されている、幽齋の田邊城籠城に関し朝廷からの停戦の働き掛けに関する貴重な資料である。
著者の所蔵による。
従来田邊城への停戦・和議の使者は、三条大納言實条・中院中納言通勝・烏丸中将光廣だとされてきた。
処が氏の著作によると、日野輝資・中院素然・富小路秀直だとし、これを裏付ける冷泉少将為親宛の三人からの書状が写真で紹介されている。
細川家資料によって語られてきたことが、強力な資料により再検討を余儀なくされるのではないか・・・・・
貴重な史料であるため引用させていただき、内容を再認識したい。
尚々田邊之儀
さきへ
前田主水罷越候間
可御心安候 以上
昨晩両三人
至室河原参
着仕候徳善院
衆 存之外遅々候て
如此候 前田主水ハ
今日田邊へ可令
参着之由候てさきへ
罷越候 彼地之様子
不可有別状候間
御心安可被思召之由
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内々可預御取成候
両三人ハ明後日
早々田邊へ可参着候
猶追々可申入候
恐々謹言