年未詳三月五日忠利宛三齋書状(1812)に、二つの大名物茶入れについての記述があった。
已上
書中、又立飛州よりの御撚も具ニ見申候、我等へも先日此分ニ御申候つる、
其方如被存候、我等ハ拝領ノ尻フクラト山の井ならてハ、茶入ハ持不申候、
残ハ何もあらみにて候、飛州よりとり申候ツル付ハ、一段おもしろキ物にて候
ま、せう/\ノ物ニかへ申事ハ不成事候、飛州と我等事候間、いかやうニも
と存候へ共、數寄道具ハ一切さやうニハなき物にて候、近日御すき候は、ま
つ返シ申候て、又可申請候、則唯今、茶入さん三郎ニ渡申候、茶入之そこね
申所つくろい可申と、うるしを付申候へとも、のこいし進之候、兎角ニ可申請
候間、御國へ御歸之時給候様ニ可被申入候、其内かへの茶入之事、たんこ
う可申候、状書そこなひ、中をツキ申候、恐々謹言
茶入ノ箱ノヲニ此印ツキ申候 ○(ローマ字青印)
三月五日 宗 (花押)
写真は尻膨(利休尻ふくら)であるが、これは関ヶ原の戦いの褒美として忠興が徳川秀忠から拝領したものである。
綿考輯録には次の様に記してある。
(慶長六年)三月十七日、大坂の御館に御入、十九日家康公江御目見被成
候処、御料理等被仰付御首尾能御座候、同日秀忠公岐阜・関原表之御軍功
御賞美之御物語なと有之、利休尻膨の御茶入を被進候、前かと御戯ニ国ニ
かへても御望と被仰候を御覚被成候而、今其望を被叶段秀忠公御意と也
この茶入れは宇土細川家に伝わり、この尻膨他の道具と共に綱利公へ進上、3,000両を下賜され宇土細川家財政立て直しなどに使われた。
其の後、細川本家所有のまま現在に至っている。大名物である。
山の井肩衝についても綿考輯録に以下の如く紹介されている。
忠興君に康之より差上候茶入、高さ三寸八分廻り七寸也、本ハ越前ゆのふ
峠の茶屋ニ有之候を、康之家来稲津忠兵衛と申者囉(もらひ)候ヘハ、安々
とくれ候故、腰銭を六十遣候所斟酌いたし候を、是非に与帰候、扨傍輩共ニ
見せ候ヘハ皆々笑ものニ致し候故、稲津も抛転し枕なとにせしを、岡本久右
衛門と申利休児小姓立のもの、松井方ニ茶道致し居候が心付、康之ニ見せ
候ヘハ、是ハ能茶入なりとて忠興君へ数寄を仕り候時出し申候、忠興君殊外
御褒被成、古田織部へ見せ候へ、目か上りたらは可誉と被仰候故、織部殿
へ見せに遣候処、甚誉被申候、則ふた袋被申付候ニ、此茶入之袋ニ可成き
れ無之とて、京・大阪・堺方々尋、漸取出被申候由、其後忠興君へ御意ニ入
候ハヽ、可差上と康之申上候ヘハ、我ハ能茶入持たる間、其方秘蔵仕候へ
と被仰候、此故を以康之遺物ニ差上候、然共ふた袋思召ニ不叶、御仕直、始
之ふた袋ハ一度も御茶湯に御出し被成候、或時古田氏ニ御茶之時御出し被
成候処、殊之外感被申、私之勢高之茶入千枚仕候を進上申、其上金千枚差
上、此御茶入申請度と被申候由、其後加賀之前田肥前守殿より土井大炊頭
殿を御頼、金二千枚ニ御申有之度、乍去千枚ハ只今進し、残而千枚ハ度々
ニ可進と被仰候ヘハ、忠興君、度々ニ取可申齢無御座候とて御笑被成候、
此処茶入山井と被名付候
浅くともよしや又くむ人もなし我にことたる山の井の水
と云古歌の心也、松井方にてハ稲津肩付と申、世上にてハ松井肩付とも申せ
し也、三齋君より立孝主ニ御譲被成、丹後殿御伝り候哉、寛文十二年御勝手
被差支候由ニ而、望の方へ被遣度、代金五千両之由、乍然もし綱利君ニ可
被召上哉とて、先ツ御家家老迄御内談之趣有之候、此節綱利訓御在府故江
戸ニ伺ニ成候処、山の井の御茶入ハ他家ニ被遣御道具ニて無之と被思召候
間、被留置、宇土ニハ右茶入之代銀四百貫目追々ニ可被遣候、左候ヘハ茶
入何方へも参り不申、丹後殿御勝手の足りニも成可申との思召、江戸より被
仰下候(以下略)