津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「寛文元年以来御追放御暇并知行被召上候面々之覚」から

2013-01-29 14:57:14 | 歴史
先のブログ「慶安三年以来段々御暇被遣候面々」にある藤田助之進の「御暇」の理由は、次のような事件が原因である。
 
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  「寛文元年以来御追放御暇知行被召上候面々之覚」というものの中に藤田の名前を含め三名の名前が見える。
  沢与次兵衛は助之進の娘聟である。

● 前川勘右衛門  三百石 延宝元年七月二十日 御暇

○ 藤田助之進 有吉頼母允組 五百石 (寛文四年六月・御侍帳)
             五百石 延宝元年七月十九日 御暇被遣候 

○ 沢 与次兵衛   三百石 延宝元年八月二十一日 御暇

 「延宝元年癸丑七月廿三日、於筑後北の関、肥後の士前川勘右衛門と藤田助之進同嫡子縫殿之進意趣有て及闘争、前川勘右衛門従兄十左衛門助力して藤田父子を討取」ったという、北の関事件に関する処分である。
同事件については、北関始末記、北関物語、北関聞書、北関秘録など詳しい報告書が残されていて、その詳細を知ることができる。

 藤田助之進の娘と三渕家一族の前川勘右衛門の結婚話が、三渕家一族の反対で頓挫したことに対し、藤田側がいろいろ申し立てた事に三渕家側が気色をなし、事件が起っていく。
先ずは前川勘右衛門が御暇を願い出、相手方藤田家も御暇となる。私闘の形をとりたいとする山名(三渕)十左衛門の策略だとされる。ところが上の「覚」を見ると、藤田家が十九日、前川家が二十日となっており、藩庁の作為が伺える。沢与次兵衛は、当日家来を派遣したということで処分を受けるのだが、上記「覚」では事件前の処分となっている。

 他国領で鉄炮を打ち放しての大騒動にしては、なんとなく穏便に事が終息しているのは、山名十右衛門を取り巻く長岡佐渡、津川次郎左衛門、藤崎作右衛門、細川修理、長岡興知など早々たる縁戚の顔ぶれをみると、納得させられる。
 
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 この事件の全貌についてはこのブログで19回にわたり、「北関始末實記」をご紹介したのでご覧いただきたい。
そして(島田美術館館長)島田真祐氏が上梓された小説「身は修羅の野に」は、この事件を主題にして書かれ、平成九年熊日文学賞を受賞された。
御一読をお勧めする。

                                                                                                    
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本にだって雄と雌があります

2013-01-29 09:21:57 | 書籍・読書

 

  本にだって雄と雌があります
 
             新潮社

内容紹介

旧家の書斎に響く奇妙な羽音。そこでは本たちが「結婚」していた! 深井家には禁忌(タブー)があった。本棚の本の位置を決して変えてはいけない。九歳の少年が何気なくその掟を破ったとき、書物と書物とが交わって、新しい書物が生まれてしまった──! 昭和の大阪で起こった幸福な奇跡を皮切りに、明治から現代、そして未来へ続く父子四代の悲劇&喜劇を饒舌に語りたおすマジックリアリズム長編。
 
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