細川家の史料では「有明」とよばれる茶入れだが、後には安國寺恵瓊の手にわたり「安國寺肩衝」となったという。廻り廻って再び細川家の元に帰り、今度は「中山」と名附けられた。現在は五島美術館の所蔵になるこの茶入れだが、色々な資料によると、この茶入れは、幽齋公から三齋公に伝えられたとされているが、いささかの疑問がある。
安國寺肩衝の流転 http://www.ttec.co.jp/~fudouin/ekei/tyaire/t-1.html
名物茶入 http://members.ctknet.ne.jp/verdure/cyaire/a.html
豊臣秀次が謀叛の疑いをかけられ秀吉から成敗された折(秀次事件)、細川家も連座の罪で疑われ窮地に陥ったことがある。
娘・長の婿・前野出雲守長重は秀次近くに仕えていたため父と共に切腹させられたが、長は出家させて難を逃れている。
一方秀次から借金をし、連判状に名を記していた忠興も切腹の沙汰が心配されたが、家老松井康之の奔走で黄金の返済をなし秀吉の誤解をとき、命拾いをした。このとき秀吉から拝領したのが、この「有明」の茶入れだとされる。綿考輯録は次のように記している。(忠興公・上 130~131)
康之帰候以後、忠興君閉門御赦免ニ而、御登城被成候得は、奥へ通り候へとの御意にて、各列座の中を御通り候ニ、
何れもあやうく被存体也、太閤ハ奥の間に床を枕にして御座有けるか、三成か訟へ捧る処の一味連判を取出し、是ハ
其方の判にてハなきかと被仰、忠興君如何ニも能似申たる判にて候へとも、筆くわく違候と御答被成候得は、左こそ有
へき事なり近く寄れとて、懐の中に手を入レ御さくり候へ共、懐剣も無りけれハ、如何にもケ様ニ有へきと見つる事也、
大たをれ者に一味し、ケ様の連判有之と云共、惣而十人の中五人も三人も謀判を加る事は可有也、忠興ハ先年明智
叛反にさへ組せさりし事なれハ、此判は偽り成へし、たとひ一味とも以前の忠義に対しゆるす也、さそ此程ハ気積りた
るへし、茶の湯して慰候へとて、有明といふ御茶入を被下候間、畏て御礼申上候、其時御側衆、扨も結構なる物を被
為拝領候と御取合有けれハ、太閤夫よりも大事の物を遣したりと被仰候、忠興君暫く御思案被成、誠に此以前も時雨
の御茶壺を拝領仕候と御申上候へは、いや夫にてハなし、一大事の命を遣したりと被仰候、扨御退出被成候ヘハ、御
次の人々御命をさへ危く存候ニ、名物を御拝領ハ冥加に御叶被成候事と各御申候なり
この茶入は上記「安國寺肩衝の流転」に帰されている如く、転々としているが、津田秀政(與庵)の茶会でこれを見かけた忠興はこれを持ち逃げしたという逸話がある。また息忠利代これを売り払い家中扶助の資金にしたことを知った忠興が、「茶の湯あかりし」と云ったとも伝えられる。
これらも綿考輯録が記するところである。