津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

入江平内事(二)

2013-01-20 11:22:48 | 歴史
「武家家伝-入江家」には、【元秀には景秀と景光の男子があり、景秀は高槻落城後しばらく流浪していたが、勝龍寺城主細川藤孝に召し出されて丹後に供して細川家の家臣に列した。慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦に際して、細川幽斎が田辺城に籠城したとき、景秀は大手口を固めて活躍した。弟の景光も細川氏に仕えて忠興の近習を勤め、天正十年、忠興が一色義定を手討ちしたとき、同十八年の小田原の役のときも忠興の側近くにあった。かくして、元秀の子たちは細川家に仕えて、近世に至ったのである。】と紹介されている。
「綿孝輯録」によると、兄景秀については淡路、弟景光については平内入道真斎としている。 
    左近将監     淡路守     徳左衛門
    元秀---+---景秀---+---元景---+---景就・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・入江傳十郎家(300石)
        |     |      |
        |        +---正勝  +---正照
        |
        +---景光(平内入道真斎)
入江家は「丹後以来」の家であり、兄・景秀(淡路)は「田辺城籠城衆」として、慶長六年忠利(当時忠辰)から、懇のお言葉を戴いた。
           入江淡路田辺籠城功労之事ニ付、慶長六年被下候御書 (綿考輯録・巻28)
      折紙拝見候、誠其後久敷不申承候、書中之ことく去年一乱之砌、
      於田辺二長々苦労有之由、尤心中察申候、手柄成儀共満足申候、
      爰許長々之義迷惑推量之外ニ候、仕合之儀ハ無残所候間、機遺
      有間敷候、奥御陳儀も爾今不相極候、大略ハあつかいと申候条、
      可為其分と存事ニ候、恐々謹言
      五月三日        内記忠辰(忠利)御判
                      入江淡路殿 まいる

 豊前にて三百石被下候、妻ハ毛利家士乃美某女なりしか、城下引払候とき、一揆を防ぎ男子に勝る働有しと也、父は左近将監光秀と云、摂州高槻の城主にて、信長の為に殺され、一族郎従ともに此時分散せしと也、淡路其比は権之允と申候て、幽斎君青龍寺城御在城の時より御出入仕候、乱舞好奇にて、又してハ円斎か所によりて小鼓を打し也、五郎次か鼓に似たりしといふ、豊前にて御万殿に御附被成候、忠興君・忠利君御自筆之御書数通頂戴、後剃髪して普門と云、慶長十九年六月病死  (綿考輯録・巻5)
 又、弟・景光(平内入道真斎)については次のようにあるが、子孫については不分明としている。
淡路弟、二百石、若狭の逸見に仕へ牢人して御家ニ参候、芸能多く形儀のぬるき者なり、能登守教経の矢の根・大脇差・乗鞍忠興君へ差上申候、平内果候節、忠興君御追悼の御詠歌被下候
      立のほる煙の末はなきものを つきせす落るわかなみた哉
忠利君より被為拝領御書于今本家に持伝候、真斎子孫有之哉、不分明  (綿考輯録・巻14)
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