津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■文化九年の著「仁助咄」

2018-03-27 13:10:12 | 書籍・読書

 この本「仁助咄」は大変珍しく御百姓の会話方式で綴られている。右側の刊本は、国書刊行会から「熊本女子大学郷土文化研究所編・熊本県史料集成」として昭和60年4月に発刊された。但しこれは昭和27年に荒木精之氏の日本談義社が発刊されたものの復刻版である。
それゆえ、本文は見事な文字の、ガリ版刷りによる当時のままの姿が表現されている。
左の冊子は矢部町教育委員会が昭和51年3月に発刊された。それはこの著者を矢部町の医者・渡辺質(ただす)だとする説があり、これに沿ったものであろう。

昨日ブログで「豊後国諸藩の一揆の伝播と細川藩豊後領のこと・一旅人の記録「途中流説」を読む」の説明資料としていろいろ読んでいることを記したが、この「仁助咄」を手に取ったら、その発刊がまさしく文化九年だと知り、是は偶然ではなかろうという想いを強くした。

岡藩竹田城下の一揆は、成り上がりの一人の執政による暴政が原因である。堀平太左衛門のような能士がいなかった不幸である。
しかし熊本とて、宝暦の改革による御百姓のくたびれは「銀台遺事」や「肥後物語」などでは触れられることもなく、ただ名君・重賢公として紹介される。天明六年には二千人の餓死者が出たという事実は、農政の限界を示している。熊本を旅行した古川古松軒の日記「西遊雑記」が述べる阿蘇地方の悲惨さなどは、まさにこの「仁助咄」の前触れとさえ思える。
いろいろな史料にふれて真実を目のあたりにするとき、心が重くなってしまう。



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■寛永より寶暦迄・郡中法令(28)

2018-03-27 07:19:33 | 史料

 三七六
   覺
一公儀御法度ハ不及申、追々御觸之趣堅相守、自分家内ハ
 勿論抱村々御百姓末々迄委敷申付、風俗みだれさる様可
 仕事
一萬事廉直之仕法第一相心得、銘々手前相慎、抱村々御百
 姓は正直を守、農業ニすゝみ、村方申談むつましく仕、
 公役速ニ相勤、御年貢無滞上納仕候様常々教訓仕、作方
 手入養方之儀をも心を附、一人ニても御百姓立候様取計
 可申事
一何事ニ不依、親類・他人之無差別、聊も贔屓らしき儀仕
 間敷事
一兼々地味之様子、田畑之入組を能相しらへ、村々帳面入
 念諸事御百姓為相宜様、有躰取揃可申事
一道橋・塘筋・堤・井手等無油断心を附、損所あらハ速ニ
 取繕可申事
一御山薮之儀、平日心懸、少ニても立茂り候様可申談事
一庄屋役之儀、其掛り/\之親たる之間小百姓共へ親ミ
 なくてハ難叶候條、役威にほこらす村方へ不絶打廻り、
 日々之作業をも委ク心を附候て、風儀宜クそたて候様可
 仕候事
一惣体村々之風俗ハ、庄屋役之心持ニよつて善悪有之事ニ
 付、銘々身がまへの慎覺悟可仕事
一近年は別て御免方萬端御憐憫之筋多有之、難有儀ニ候處
 夫付て欲心をおこし色々御難題之筋願出候者も有之様子
 ニ候條、其方共より心を附、偏ニ難有奉存、彌以耕作精
 を出、往々御難題ニ不相成様可被申聞候事
一御年貢取立之儀ニ付てハ、兼て令沙汰置候通、一村限庄
 屋共より取立上納仕せ可申候、不埒有之為催促會所役人
 度々罷越、村方へ滞候てハ村中之衰微ニも相成事ニ候、
 萬一庄屋をあなとり候仕方有之候歟、御惣庄屋へ申達か
 たき筋之儀あらハ、我等共手附横目へ相達へし、若横目
 役へも難達事有之ハ此方へ罷出直ニ可申出事
 右之條々今日直申付候條、猶又各より委被申渡、此書附
 寫取せ、右之趣得其意候との受書、判形を取可被相達事
   寶暦十二年三月     御郡代中

 三七七
一諸御郡村々、其外寺社又は山中ニ鳶烏之巣有之候ハヽ、
 子巣共ニ取除可申候、尤以来共右之通相心得候様可相達
 旨候條、寺社之境内有之候巣ハ、村方より取除候様可有
 御申付候、右之趣御仲間中も可有御通達候、以上
   寶暦十三年三月廿日   御郡方御奉行中

 三七八
   覺
一御年貢納之儀付てハ兼て相定め候御法も有之、猶又年々委
 申達候事候、然處去秋之儀、抜米多有之たる様子ニて拂
 詰ニ至、所ニより候てハ餘計之買拂願出、不埒之至候得
 共、御算用ニ差懸り候事ニて、去暮之儀ハ下方願之通相
 達其通被仰付、右之通ニて去年之儀ハ去々年之買拂ニは
 倍々程之増方ニて、甚御手當違ニ相成、只今ニ至候てハ
 御買米被仰付事ニて、不之所より右之趣成行候儀奉恐     扌偏に乄=締
 入事候、依之當四月も厳敷及沙汰候通、當秋よりハ畑在
 又ハ無據前々より現米上納差支候所柄之外、決て買拂御
 蔵違等之願難被為叶候間、此旨彌以無相違被相心得、只
 今より重疊被申渡、収納早速くより御定之通現米上納可
 被申付候、右納方之儀ハ下方難澁無之様、畑方之所ハ銀
 上納之高を被極置、田方之儀ハ其年々之毛上相應之極方
 被仰付宜ニ候得ハ、及不足可申譯無之、畢竟村役人各油
 断之所より取抜ニ相成事候間、初秋より一品限早速/\
 稠敷取立可被申候、徳掛等相濟候以後、極々無據子細有
 之、買拂願出候分は遂吟味彌相違無之候ヘハ相達可被申
 候、猶又不吟味之筋ニて順等於有之ハ各越度可被仰付
 候、若又抜米致候者、或ハ買拂等之手段取組候者於有之
 ハ被差通間敷候、只今より村役人共不及申、小百姓迄精
 々可被申付候
一大高を抱勝手向兎哉角致候御百姓共、手廻之ため春夏之
 内より諸方ニかけ色々申談置候て現米を抜し、或ハ借方
 立用物之筋ニて米穀を圍置立拂等申談候様子相聞候、會
 所役人共之内ニも心得違之者も有之様子相聞候條、彌以
 委敷吟味候て、庭帳前相しらへ現米を以皆濟上納仕せ可
 被申候
一御家中開米之儀、道送を以付出候儀ニ候得共、間ニハ手
 合ヶ間敷儀も有之様子ニ相聞候、右開米之儀去年之通之
 通帳ニ口ニ徳米之惣高を記置、付出候節之俵數内書ニ
 調、各印形を用ひ付出せ可被申候
 右之通候條可被得其意候、畢竟下方心得違より御支ニ相
 成候儀、重疊不届之至候、各油断無之候得ハ抜可申様無
 之候條、此旨屹ト相心得可被申事
   寶暦十三年六月     御郡代中

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