始めてみる私人浅山修理の書状である。修理の名前は豊前時代から肥後入国直後までいろんな資料に名前が登場する。
○ 浅山修理 (1)千石・御留守居組 一書ニ御鉄炮二十五挺頭 (於豊前小倉侍帳)
(2)御鉄炮頭衆 千石 (肥後御入国宿割帳)・・修理之進
(3)御鉄炮頭衆 二千石 (真源院様御代御侍名附)・・修理亮
(4)二千石 (真源院様御代御侍免撫帳)
始め清右衛門修理亮、豊前に於二百石、寛永四年正月忠利の命によって修理亮と改。
忠利・光尚に仕。元和九年奉行職、同二十年三月五百石加増、都合弐千五百石知行。
慶安四年迄奉行在職。
私男子無御座候間養子仕度存候、左様ニ御座候へハ伊藤左内せがれ私孫ニて御座
候間、養子ニ被仰付可被下候処被得御錠可被下候 以上
寛永拾八年九月十四日 浅山修理亮(花押)
堀江勘兵衛殿
椋梨半兵衛殿
西郡要人佐殿
(裏)表書之通ニ可申付也
寛永拾八年九月廿五日 fosocawaroku(光尚ローマ字印)
奉行中
上記のような養子の話がまとまっているにもかかわらず、絶家したのか離国したのか先祖附けも残されておらず、その子孫の事は良くわからない。
後藤与兵衛なる人物の消息についての記述があるが、この人物先祖附は残っていない。
○ 後藤与兵衛 人持衆併組迯衆 五百石 (真源院様御代御侍名附)
五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
長岡(米田)監物に宛てたものだが、年代が特定できないため、米田家の何代目であるかも判明しない。
後藤与兵衛おち所へ
与兵衛ゟ近日見舞ニ
飛脚申遣候度奉存候
公儀ゟ御赦免以後ハ
手■何角と取紛終ニ
飛脚をも遣不申候御
赦免申され候而者御座候へ共
奉得御内意候以上
九月十八日 浅山修理 花押
監物様
後藤与兵衛の「おち(伯父・叔父)所」とか、与兵衛のことなのか修理自身のことなのか「公儀ゟ御赦免」とか、何を物語っているのか大変興味深い。
修理の消息が知れるのは、「慶安元年11月10日、奉行職被免」とある。(熊本藩年表稿p69)